ブログのコメント欄に他の方の投稿に混じってバラバラに投稿されてて非常に見にくいので、 是非ともこっちにもご投稿をお願いしたいところです。 とりあえず最近目に付いたものを手当たり次第に勝手転載します。セイラさんとか故オリーブ さんには是非ともコメントを頂戴したいところです。上のリンクにも黒龍さんの頁を追加して 常時閲覧可能にさせて頂くかも。他の人の投稿も一部入ってます。日付は当掲示板と同様に 新しいものが上に来る時系列に一応なってます(同日一連は別)。 -------------------------------------------------------------------------------------------- 「被告の自白」という第一級の証拠が捏造された可能性に加えて、地下鉄サリン事 件の「遺留物」という物証が隠蔽された可能性も存在している。 −地下鉄サリン事件で言うと、遺留品の鑑定にも問題があると聞きます。正直に言 えば、三月二十日のあの混乱した事態のなかで正確に証拠を残しながら捜査を進める というのは確かに大変なことで、捜査側にも同情する点もなくはないんです。しかし、 冒頭陳述を読んでも、撒かれたものがサリンであると鑑定していく捜査過程がさっぱ り分からないのも事実ですね。 渡辺 おっしゃるとおりですね。例えば現場の遺留物としては、千代田線霞ケ関駅 で、二袋のうち一袋がまるまる残されていて、非常に重要な証拠物となっています。 地下鉄の駅の人から任意提出を受けて警察は、その領置調書をつくった。それが、そ の証拠物を警察が手にしたという公の書類です。しかしその調書を見ると、領置した 物件は「濡れた新聞紙様のもの」としか書いていない。実際には、新聞紙に包まれた 「袋」があったはずなんですが、それが書いていないんです。それで領置調書は不同 意(証拠として認めない)として、警察官の証人尋問を行った。その結果、「袋はあ った」という証言を得て、調書の記載の誤りが明らかになったということがありまし た。 確かに、現場では混乱した状況があったかもしれません。しかし仮にその時点で食 い違いがあっても、法律の手続きとしては後からでもきちんと補正すべきなんです。 一般にはなかなか理解されないかもしれませんが、きちんとしたドキュメントが提出 されず、現場から何が採取されたのかハッキリしないということは、その証拠物は存 在していないことと同義なんです。 警察官の証人尋問の後、弁護団はその領置調書に対する不同意を撤回して、証拠と して法廷に出せ、と言いました。ところが今度は検察側が、その領置調書を法廷に出 さないことにしたんです。だから結局、「千代田線霞ケ関駅で領置された袋」に関す る領置調書は、現在のところ証拠として法廷に存在していない。これは非常に特異な ケ−スですね。 この問題の関連で言うと、この「袋」は事件当日、埼玉県大宮の自衛隊の化学学校 に運ばれて、仕分けされました。 −そこはハッキリしているわけですね。 渡辺 ええ。証言も仕分け作業の写真もあります。しかし僕らが問題にしているの は、この経過を記録したドキュメントがほとんどない、ということなんです。誰が、 どういう方法で運んで、化学学校のどの部屋で、何時何分から、誰が、どのように仕 分け作業を始めたのか、分からないんです。「袋」の外側の一枚を剥いだら何が出て きたか、いちいち記録する必要があると思いますが、その種の資料がないんです。マ スクを被った二人が仕分け作業をしている写真は残っていますが、これが誰なのか分 からない。 −ほう、そうですか。 渡辺 立ち会ったという鑑定人に証人尋問しても、「誰なのか分からない」と言う んです。警視庁の科学捜査研究所が自衛隊化学学校に助けてもらって作業をしたとい うことになっていますが、科捜研が自分で仕分け作業をしていたのかという疑問も出 てくるわけです。仕分け作業の後で遺留物は警視庁に戻り、サリンと鑑定されたこと になっているわけですが、その最終の鑑定書があるだけでそれを裏付ける途中が抜け ているわけですね。 −すると現場に遺留されていた物と最終的に鑑定の対象とされたものが完全に一致 せず、他のものが混じり込んだりスリ替えられたと言いうる余地が残されてしまって いる、ということですか。 渡辺 そうなんです。最終的な鑑定がいつから始まり、どこでやったのかも分から ないんです。・・(「麻原裁判 これだけの問題点」より) 遺留物の鑑定の経緯の不自然さは、オウム・ハンタ−である江川紹子さんも指摘し ている。 (3月20日−筆者注)午後になって、安藤科長ら数人の技官が埼玉県大宮市の陸 上自衛隊化学学校に赴いた。日比谷線の二カ所で領置された新聞紙に包まれた不審物 を、仕分けするため、強制排気装置を備えた自衛隊の施設を借りることになったのだ。 この事件の場合、通常の事件では裁判に提出されるような遺留品の扱いに関する書 類が揃っていない。そのことを弁護側から追求されると、安藤科長は穏やかな口調で 反論した。「通常は、鑑定嘱託書とともに試料がまいりまして、確認した上で試料に 番号をつけていくわけですけれども、この事件ではそういうことをする時間的な余裕 もありませんでした。後からですとどうでも言えることですが、その時はもう混乱し ている状態でした」 丸ノ内線、千代田線の車両にあった不審物も、領置されて事件当日に科捜研に運び 込まれている。しかし、正式な鑑定嘱託の日付は三月二十四日。それまでの間、サリ ンはどこに保管されていたのかを示す証拠が出されていない。安藤科長も、「(庁舎 の)屋上にある科捜研の施設に置いたんだと思います」と言うだけで、はっきりした 記憶がないようだ。・・(江川紹子「オウム真理教」裁判傍聴記・ 文藝春秋) 地下鉄サリン事件が起きたのは、95年の3月20日である。不審物が領置された が、3月20日から3月24日までの間、それがどこに置かれていたのか記憶がない という。おいおい、こんないい加減なことでいいのか。事件現場は混乱していた、こ れは捜査側の言い分である。あいまいな証拠で有罪を宣告される被告はたまったもの ではない。 | 200709-01 14:19:00 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] 公安が 気付かない訳ないでしょ。 決定的な事件になるまで、泳がせてただけです。 新左翼運動をつぶしたのと同じ手法。 刑事警察と公安の役割は違うからね。 刑事警察は、国民の安全保護、 公安は国家体制の維持、したがって 国民に犠牲が出ても、見て見ぬフリをすること大あり。 新左翼は無差別爆弾テロと内ゲバで自壊 していったけど、オウム事件も良く似ているよ。 サリンテロに内部分裂。歴史からは学ばなければ ならない。 ちなみに警察庁長官狙撃事件以後、捜査は刑事警察から 公安警察の管轄に移行したようだ。 | 200709-01 22:01:13 | #Uft.EJpk URL [ 編集 ] 2000年8月18日 消えた「アセトニトリル検出」 麻生幾がかつて書いた 『極秘捜査』(19997年1月30日第一刷/文芸春秋社) が、このほど文庫となった。 『極秘捜査』は、地下鉄サリン事件での警察捜査の内情を、ことこまかに記したノンフィクションである。麻生は以前から警察関係のノンフィクションをたびたび書いている。警察への独自の取材ルートをもっているようで、今回もおそらく警察関係者に直接取材したのだろう。これはたしかに警察内部の者しか知りえないだろうと思われる情報もでている。 しかし、文庫化にあたって、大切なところが書きかえられていたのである。 以前の本では、一番最初に検出された化学物質は「アセトニトリル」だった、となっている。 ところが、あたらしい文庫のほうでは、一番最初に検出された化学物質は「ジエチルアニリン」と書きかえられている。 さらに、以前の本で記していたアセトニトリル検出はまちがいだった、とされているのである。だとすると、どうしてまちがったのか理由を知りたいものだが、理由についてはまるで触れていないのがふしぎである。 理由にはふれぬまま、麻生は、 「『誤報』がほんとうのこととしてひとり歩きをする」 と「間違い」であることを強調する。 しかし、しかしである。 麻生が言うように、本当に「アセトニトリル」の件はまちがいだったのだろうか。 東京消防庁は、事件直後に独自の現場調査により、やはり 「アセトニトリル検出」 と発表している。 つまり事件直後は、警察・東京消防庁の二つの機関がそれぞれ独自に事件現場から「アセトニトリル」を検出したといっていたのだ。こういうことから、実際問題アセトニトリルを検出したんだろうと考えるのが、本来は自然だ。そこへ麻生が生々しく「アセトニトリル」検出のドキュメントを『極秘捜査』初版本へ書いたものだから、ますます真実味はます。 さてさて、その後麻生は警察発表のみならず、東京消防庁のアセトニトリル検出まで理由不明で否定してしまう。そして、またまた「誤報」と決めつけている。やっぱり根拠は全然不明だ。 こういう必死に話を変えようとするところを見ると、間違いだったというより、むしろ話してはいけない真実をボロッと話してしまい、あとで必死でそれを隠蔽しようとしているように見えてしかたがないのだが。 なお、アセトニトリル検出が真実であった場合、アセトニトリルが存在する意味合いについては、わたし個人はまだきちんと調べていない。人によっては、サリンとはまた別の毒ガスが加水分解した際に発生する化学物質がアセトニトリルなのだと指摘する人もいる。サリンを持ち運びやすくするために薄める溶剤だったんだと指摘する報道もある。この辺、いずれ調べてみたい(オウム裁判対策協議会)。 私(黒龍)が情報公開条例によって、東京消防庁から得た資料にはこう書いてある。 受命事項 1 地下鉄構内及び不審物の分析並びに測定。 活動概要 西新宿CS隊員4名が空気呼吸器を着装し地下鉄構内に進入。ガス分析装置の吸入リールを設定するとともに可燃性ガス警報器及びドレーゲルガス検知管を活用し内部大気を測定。この時点で大隊長より不審物(ビニール袋に入った液体)の測定を下命され携行したナイロン袋に収納し、車両へ搬送し測定を実施した。測定の結果アセトニトリル221PPMを検出、直ちに許容濃度及び危険性について中野指揮本部へ報告した。その後、地下鉄構内の測定活動を継続実施した。 効果・反省 各種測定器材を効果的に活用し、早期に物質(アセトニトリル)を特定し、許容濃度及び危険性等を指揮本部へ報告し、活動効果は「大」であったと思料する。 以上は、平成7年3月20日の「中野坂上」駅構内における、消防活動報告からの抜粋である。つまり、公文書なのである。警察は事件現場でアセトニトリルが検出されたことを否定している。検察の最終論告においても、アセトニトリルに対する言及は見られない。しかし、東京消防庁によると、中野坂上でアセトニトリルが検出されたことになっている。 化学の専門家同士で意見が対立している。もし、アセトニトリルが検出されたら、駅構内で毒ガスを撒いたのは、オウムではない、ということになるであろう。オウムが撒いたのは完成済みのサリンだったからだ。アセトニトリルを使った、という話は何処からも、誰からも証言を得られていない。 誰かが嘘をついている。地下鉄毒ガス事件で使用された凶器は、本当にサリンだったのだろうか。しかし、検察によって、サリン以外の毒物が使用された可能性は排除され、麻原死刑囚の死刑が確定してしまった。地下鉄構内で使用された毒物について十分に検証されないまま、物的証拠を排除したまま、実行犯による「自白」によって、死刑囚の死刑が確定してしまった。ここがポイントである。地下鉄で撒かれた毒ガスは本当にサリンだったのか、証拠物(アセトニトリル)に対して、どうして正反対の結論が導き出されたのか、逮捕された被告は、本当に真実を話しているのだろうか? 私の答えはNoである。被告は嘘をついている。「自白証拠」抜きに、もう一度、物証という観点から事件を再検討する必要がある、と感じている。 再審が決定した名張毒ぶどう酒事件でも、再鑑定によって、毒物が「ニッカリンT」ではなかったことが明らかにされました。冤罪で逮捕された奥西勝さんは、1961年35歳の時に逮捕されてから、冤罪を訴え続けて、何十年、現在は80歳を越える年になってしまいました。 私は奥西勝さんと麻原死刑囚の無罪を確信しています。といっても、国家権力が麻原裁判をやり直すことはあり得ないので、自分のコメントは、事件に対して疑問を抱いている教団関係者へのメッセージと言ったところになるのでしょうか。 一通り、言いたいことは言ったので、事件に対する書き込みは、これで一応終了させて頂きます。ご拝読ありがとうございました。 | 200709-02 15:40:32 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] 地下鉄サリン事件の変 不審物について まずは図2を御覧頂きたい。これは地下鉄サリン事件で、地下鉄日比谷線霞ケ関駅 で目撃された毒ガス発生装置である(『東京新聞』95年3月21日朝刊)。本文記 事にはこうある。 営団地下鉄日比谷線霞ケ関駅ホ−ムで至近距離から不審物を目撃した複数の乗客に よると、その“兵器”は透明ビニ−ル袋の中に茶色の箱の形をした紙袋があり、ガラ スかプラスチック製の瓶の口のようなものが二つあった。この口から透明の液体が流 れ出し、包んでいる袋に染み、列車の床に液体が広がっていたという あれれ、おかしいぞ。オウム真理教の実行犯が傘で突き刺したというサリン入りの ナイロン袋とは違うではないか。こう思った人は、催眠術から目を覚ます希望が残さ れている。これはどう見ても、ナイロン袋と呼べる代物ではない。四角い箱の中に二 つの瓶があって、そこから液体が流れ出している。 不審物の目撃例はこの他にもまだ沢山ある。 東京.営団地下鉄の車内で有毒ガスが流出した地下鉄サリン事件で、車内に残されて いた不審物は、複数の薬品をそれぞれ溶剤に溶かして試験管のようなガラス製容器に 詰め、容器を割って混合させるとサリンが発生する構造だったことが二十二日までの 警視庁捜査本部の調べで分かった。犯行後逃走する時間を稼ぐため、溶剤でサリンが 揮発する時間を調整しようとしたものとみている。 調べでは、不審物のいくつかは平べったい弁当箱大の包みにおおわれ、内部から割 れたガラス片が多数見つかった。形状から試験管大のガラス容器とみられる。また日 比谷線霞ケ関駅の電車からはガラス瓶を押収した。一方、別の日比谷線の電車では、 異臭がする直前に、乗客がガラスの割れる音を聞いていた。 現場の残留物からサリン製造の際に出来るメチルホスホン酸ジイソプロピルエステ ルが検出されており、捜査本部は、複数のガラス容器にサリン合成の最終段階の液体 二種類を溶剤に溶かして別々に入れ、倒すなどして容器を割って混ぜ合わせ、サリン を発生させたと見ている。(『毎日新聞』95年3月23日朝刊) | 200708-24 14:56:15 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] 続き ガラス瓶が押収されたと聞いて驚かれた人も多いと思う。しかし警察は口が裂けて もそんなことは公言しない。真実が明らかになっては困るからだ。我々一般庶民には、 本当に大切なことは何もあかされないのである。 このガラス容器が割れる音については、別の証言もある。 北千住駅から日比谷線に乗り、前から三両目にいた。秋葉原駅で自分の後ろの方で パリンという音がして、シンナ−のようなにおいがした。(『毎日新聞』95年3月 21日朝刊) 八丁堀−築地駅間では、網棚におかれていたビンが落ちて割れ、その瞬間に一人が 倒れたという。(『産経新聞』95年3月20日夕刊) 病院で治療を受けた足立区に住む会社員(32)は、「日比谷線の人形町の手前で びんの割れる音がした。床が液体でぬれていてシンナ−臭かった。みんなせき込んで おり、けいれんをおこした人もいた。目の前が真っ暗になった」と話した。(『産経 新聞』95年3月20日夕刊) 不審物にはガラス容器が含まれていたことは間違いないようだ。犯人がガラス容器 を使ったのは、複数のガラス容器を割ることで中の液体を混合させ、現場で毒ガスを 発生させるためである。これを専門用語で「バイナリ−方式」と呼ぶ。 東京の地下鉄サリン事件で、犯行に使われたサリン発生源は、踏みつけるなど衝撃 を与えると容器が割れ、数分後にサリンガスが発生する仕組みになっていたことが二 十四日、警視庁特捜本部の調べでわかった。 これまでの調べでは、包みの中には二つの密閉された容器が入っており、容器を踏 むなど衝撃を与えるとそれぞれの密閉パックに入った液体の化学物質が混ざって反応 し、サリンが発生する仕組みだった。 専門家によると、化学防護服などを着けない限り、猛毒のサリンをそのままで持ち 歩くことはできない。このため、犯人グル−プは、サリン生成の最終工程に使われる 毒性の低い化学物質を別々に溶剤に溶かして、二つの容器に分け、毒ガステロの目的 地で混合させ、サリンガスを発生させる方法を使ったとみられる。 二種類の化学物質を使用する場所で混合するやり方は「バイナリ−方式」と言われ るが、これだと、サリンガスの発生までしばらく時間がかかり、犯人が電車から降り る直前に容器を割れば、自分がサリンの被害を受ける危険性は少ない。(『読売新聞』 95年3月24日夕刊) | 200708-25 15:08:30 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] 続き 一方、佐藤重仁.筑波大臨床医学系助教授(麻酔学)は「自分で容器を開けることは、 自身にも危険だ。サリンの前段階の二種類の液体を別の容器に入れてロケットで打ち 上げ、振動で混じり合わせるという兵器のアイデアを米国が持っていたと聞く。今回 も、電車の振動で液体が混じり合うようにしたこともあり得る」と話している。(『毎 日新聞』95年3月21日朝刊) これまでの調べで、一部の電車内にあったサリンの発生源の容器は中が二つに分か れていたことが分かり、警視庁築地署特捜本部は犯人が現場で化学物質を反応させて サリンを生成したとの疑いを強めている。目撃証言などによると、発生源となった容 器は、中が二つに分かれていたとみられる。(『日本経済新聞』95年3月27日夕 刊) 地下鉄サリン殺傷事件で犯行に使われた不審物は、別々の袋に詰めたサリン一歩手 前の物質とアルコ−ルの一種を車内で反応させてサリンを作る“二液混合方式”だっ た可能性の強いことが、二十七日までの警視庁築地署捜査本部の調べで分かった。 捜査本部は、犯人が新聞紙に包んだ袋に何らかの方法で穴を開け、二種類の薬物を 流出させて混合、サリン発生前に逃走した疑いがあるとみて目撃情報などから容疑者 の割り出しを急いでいる。 長野県松本市のサリン事件では、容器は見つかっていないが、白煙が上がるなど、 現場でサリンが発生した形跡があり、捜査当局は同じ方式だった可能性が強いと見て いる。 調べによると、地下鉄事件でサリンが発生した五車両のうち、少なくとも二車両の 不審物は、複数のビニ−ル袋を新聞紙で包んであり、袋から液が漏れ出しているのを 乗客が目撃している。 さらに(1)サリンと一緒に、サリン合成時に副生成物として生じる「メチルホス ホン酸ジイソプロピル」が検出された(2)二車両で不審物から白煙が出ている(3) 被害が出るまでの時間やサリン発生の規模が各現場で異なっている−などの状況が、 二つの液体を混ぜてサリンを発生させた際の特徴と一致しているとみている。 専門家によると、サリンの生成方法は何通りかあるが、この方式は、生成の最終段 階で、三塩化リンから作る「メチルホスホン酸系化合物」と「イソプロピルアルコ− ル」を混ぜ合わせ急激な化学反応を起こす。この際「メチルホスホン酸ジイソプロピ ル」が発生し、白煙が上がるという。 被害が出た五本の電車のうち、北千住発の日比谷線では急激にサリンが発生したこ とを示す白煙が車内に充満、五本の中で最も被害が大きかった。 中目黒発日比谷線では、男が不審物を置き去ってから約五分後に異常が起きた。こ れに対し、丸ノ内線の一車両では不審物が見つかってから四十分以上経過してから被 害が出ており、捜査本部は混合スピ−ドの差で被害に違いが出たとみている。(『共 同通信』95年3月27日) 白煙が出たこと、被害発生までの時間や被害の規模が各車両で異なっていることな どが、「バイナリ−方式」の特徴と合致しているのだ。隠蔽されたのはガラス容器だ けではない。事件直後の乗客の目撃証言はさらなる多様性を示している。 | 200708-26 20:13:27 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] 乗客の話では、列車の座席の下に新聞紙に包まれた箱が置いてあったり、ガソリン 容器のようなものが倒れたりしていた。また車内に透明の液体がまかれたという証言 もある。(『朝日新聞』95年3月20日夕刊) 調べでは、不審物は五本の電車に、それぞれ一つずつ置かれていた。捜査本部が密 閉して保管しているが、二十五日までに中身を確認したところ、三つは弁当箱くらい の大きさの容器が、二つはビニ−ル袋がそれぞれ新聞紙に包まれていたという。(『朝 日新聞』95年3月26日朝刊) 日比谷線小伝馬町駅−電車が駅に着いた時、車内に直径、高さとも35センチ位の 筒状の物が二重のビニ−ルに包まれて置いてあった。乗客が「これは危ない」とホ− ムにけ飛ばした。(『読売新聞』95年3月20日夕刊) 丸ノ内線池袋駅−午前8時30分ごろ、2両目に乗ったところ、ドア付近に新聞紙 に包まれたものがあった。円柱状で人の頭大だった。(『読売新聞』95年3月20 日夕刊) 不審物の多くは、二十−四十センチ四方の弁当箱状のもので、中には直径約三十五 センチの筒状のものもあったという。(『読売新聞』95年3月20日夕刊) 日比谷線−新聞紙かチラシのようなものでくるまれ、ビニ−ルのひもで十文字に結 わえられた縦、横二十センチぐらいの紙袋が床に落ちているのに気付いていた。(『読 売新聞』95年3月21日朝刊) これまでのところ車内にあった新聞にくるんだ不審物から液が漏れ出しガスが発生 したという。不審物は二十センチほどの大きさの弁当箱のような金属製の物体。(『毎 日新聞』95年3月20日夕刊) 日比谷線−男が車内に置いたとみられる不審物は、直径.高さとも三十五センチ程度 の円筒形で、新聞紙やビニ−ルで包まれており、液体はサリンとみられている。(『東 京新聞』95年3月21日朝刊) 千代田線国会議事堂前駅では、ホ−ムに居合わせた清掃作業員(65)が午前八時 十三分着の代々木上原行き電車の先頭の床に強烈な異臭を放つ、高さ約三十センチ、 幅約十五センチの白いプラスチック製の水筒のようなものを見つけた。布切れの上に 置かれていたので、ホ−ムに持ち出し、警察が押収したという。(『東京新聞』95 年3月20日夕刊) 車内にはシンナ−のような強い異臭が立ちこめていた。車内を探したところ、床に 落ちていたビンのような容器に入った白いポリ袋からにおいが出ているのを発見。駅 構内の管理室内に運んだ。(『日本経済新聞』95年3月20日夕刊) | 200708-27 14:14:56 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 (P42 地下鉄サリン事件―傘) 次に土谷正実は平成7年6月4日付の滝澤和義供述調書を開いた。 そこには 『私が第7サティアン3階において、……平成7年3月19日の深夜か20日に日が変わった未明ころ、安いビニール傘5、6本か7、8本だったと思いますが、その先端をグラインダーを使って尖らせたことがありましたので、そのことについてお話しします。 ……私が第7サティアン2階で書類の処分を終え、その後、3階に行ったところ、そこに村井正大師がいたのでした。 ほかに井上嘉浩、渡部和実もいたように思いますが、この2人については私がグラインダーを持ってきた時に、初めて見かけたのかもしれません。 私が3階に上がったのに気付いた村井正大師は私に対し、第2上九に行ってグラインダーを持ってくるように言ってきたのでした。 ……私がグラインダーを持って第7サティアン3階に戻ると、渡部が私が持って来たグラインダーの刃について、これだとうまく削れないと文句を言っておりましたが、村井正大師が取りなしてくれたのでした。 そして、村井正大師に言われて、私がビニール傘の先端を、持って来たグラインダーで尖らせることになったのでした。 この時に、村井正大師、井上さん、渡部さんのほかに廣瀬健一、横山真人も第7サティアン3階におり、村井正大師、渡部さんを除くと、これらの人達は普段第7サティアンにいない人なので、なぜこの人達が来るのかと不思議に思いました。 ……尖らせる方法は井上さんが傘の柄の部分を持ち、私が傘の先端を左手に持って、右手に持ったグラインダーでその先端を削って尖らせたのでした。 ……私と井上さんが2人で傘の先端を尖らせている間、村井正大師か渡部さんの2人、若しくはそのどちらかが私に対し、 「もうちょっと先を尖らせろ」 などと指示しておりました。 また、村井正大師が渡部さんに対してではなかったと思いますが 「クリシュナナンダ師プラス正大師予備軍」 とか、何かを選んでどうのこうのと言っていたのを耳にしております。 傘の先端を1本削るごとに井上さんがその傘の先を近くに置いてあった段ボール箱にブスブス刺して、削り具合を確認し 「こんなもんでいいや」 と言ってから、次の傘の先端を尖らせる作業に移っておりました。 このようにして、傘の先端を削って尖らせるのに要した時間は30分くらいではなかったかと思います。 この間、その場にいた廣瀬さんや横山さんが何をしていたかよく分かりませんが、この2人は私が 傘の先端を尖らせる作業を全て終えた後、全ての傘を持って井上さんと一緒に第7サティアンから出て行きました。 3人が出て行ってしばらくして廣瀬さんだけが戻ってきました。 廣瀬さんは先程私が先端を削って尖らせた傘のうちの1本を持って来て 「曲がったから削り直して」 と言ってきたので、私が廣瀬さんの傘の先を見てみると、私が先程削ったところが曲がっていたためグラインダーを削り直してあげました。 削り終えると再度、廣瀬さんは持って来た傘を持って、第7サティアンから出て行きました。 私はこの2人の後に第7サティアンから出て行って、当時寝泊まりしていた第6サティアンに車で戻っていきました。』 と記されていた。 つまり渡部和実さんは平成7年3月19日から20日にかけて村井秀夫と一緒に行動していたのだ。 | 200708-21 15:05:17 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] -------------------------------------------------------------------------------- (P46 地下鉄サリン事件―3月17日以前に計画されていた) 土谷「この假谷さんの拉致の後に、モスクワの検察局がオウム真理教に対して、国民の権利を侵 害する組織の設立を禁じる刑法の条項などに違反した容疑で、刑事捜査を開始したということ らしいんですが、このことは知っていましたか。」 中川証人「早川さんがロシアに行ったのは、それに関して、その動きを押さえるために行ったんで すがね。」 土谷「それは、いつ行ったんですか。」 中川証人「それは、3月16日ごろから地下鉄サリン事件をまたいでですね。」 土谷正実は 「リムジンが識華から上九に向かっていたのは3月18日。 早川さんが成田空港から日本を発ったのは3月17日で、早川さんはそのロシア滞在中にモスクワのシェレメチェボ空港で端本悟さんに、地下鉄サリン事件はオウムによるものと教えている。 地下鉄サリン事件は平成7年3月17日よりも前に計画されていた」 と思いながら、再び速記録に目を落とした。 | 200708-21 15:06:02 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] -------------------------------------------------------------------------------- (P48 地下鉄サリン事件―イペリット 第6原則別解) 昨年3月6日付けの意見書を見た。 そこには 『森脇佳子氏が第2厚生省を去った後、假谷さん事件がおこり村井氏作製の「レーザー銃」が登場し、その後「ボツリヌス菌」の入ったアタッシュケース型噴霧装置が霞ヶ関駅に置かれ、そしてその後、「地下鉄サリン事件」が勃発したのでした。 村井氏は妻・森脇佳子氏を地下鉄サリン事件に巻き込みたくなかったから、彼女を第2厚生省から科学技術省に部署異動したのではないでしょうか? 私は、科学技術省に移ってからの森脇佳子氏のワーク内容を知りません。 果たして村井秀夫氏の言う 「ヴァジラ・サンガーに頼むしかない」 特別なワークが森脇佳子氏に与えられたのでしょうか? ……地下鉄サリン事件は遅くとも平成7年2月には計画されていた』 とか 『もし平成7年3月20日の地下鉄テロ事件でびらん症状を呈した被害者が発生したら、どうなっていたでしょうか? 当然、クシティガルバ棟の土間に残されていたイペリット合成用容器に捜査の目が向けられ、同容器で合成されたイペリットが犯行に使われた、と報道されたことでしょう。 そして 「教団内でイペリットが合成されていたことはわかったが、イペリットを撒いた実行犯はわからない」 旨報道され続けたならば、教団の将来の危険性が大いに議論され、教団に対する破防法適用も夢ではなくなっていたかもしれません。 村井秀夫氏はなぜイペリット合成用容器だけクシティガルバ棟の土間に残すよう指示したのでしょうか』 と記されている。 教団内に合成されたイペリットは全て平成7年1月の正月中に廃棄処分された。 平成7年3月20日、地下鉄サリン事件がおこった車両と全く同じ車両から、科捜研がイペリット(もしくはイペリット同様の呈色反応を示す物質)を検出していた、という事実を決して忘れてはならない。 ここで第6原則の別解を示そう。 第6原則は複数解を持っているのだ。 第6原則の別解とは、すなわち「平成7年3月20日、地下鉄車両内にイペリット(もしくはイペリット同様の呈色反応を示す物質)をまいたのはオウム真理教ではない」。 念のため科捜研の安藤証人の証言を引用しておく。 「M9という毒ガスの試験紙があります。 それで、この試験紙を使って、確か、赤く出るとイペリットということが、それで、この地下鉄サリンの液体については、そういった試験紙でも赤くなってしまう。 それで、一部にマスタードじゃないかという話も飛んできたことはあります。」(第248回尊師公判速記録からの引用)。 | 200708-21 15:07:06 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] (P49 地下鉄サリン事件―本当のサリン 第5原則) ここで第88回公判の土谷正実の中川智正証人に対する対質質問を第5原則と共に振り返ってみよう。 土谷「床にこぼれた水をイメージして頂きまして、その床にこぼれている水を、その場に立っている 人が呼吸器系を介して吸うということはあり得ることなんでしょうか。」 中川証人「それはないと思いますけどね。普通はないと思いますけど。」 土谷「私が今まで見てきた全ての検事よりも、証人の方がはるかに多くの化学知識をもっています し、はるかに化学センスもよいです。……そこでお聞きしたいんですけれども、証人レベルの 化学知識の持ち主、及び証人よりも所有している化学知識量の少ない人たちが、平成7年3 月20日、地下鉄車両内の床に流れていたサリン溶液と、いわゆる地下鉄サリン事件の被害状 況との因果関係について評価できるとお考えですか。」 この質問に対して臆病者・小心者・姑息・クズ・カスである澤田があわてて中川智正証人の証言を妨害した。 | 200708-22 15:25:40 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] (P49 霞ヶ関アタッシェケース事件) ニッポンの検察の惨憺たる狼狽ぶりを横目に見ながら、第8原則・第9原則・第10原則・第11原則を年頭に置いて次の問題を考えてみよう。 「地下鉄サリン事件前に霞ヶ関駅に置かれたアタッシュケース型噴霧装置の中に入っていた液体がただの水だった理由は何だったのか。 そして、ただの水だったという事実を、なぜニッポンの検察はひた隠しに隠し続けてきたのであろうか。」 この問題の応用問題についても提示しておこう。 「遠藤誠一は初公判でなぜあのような罪状認否をしたのだろうか」。 遠藤誠一はボツリヌス菌だなどと大ウソをつきながら井上嘉浩にただの水を渡した後、サリンをつくるなどと言いながらN,N−ジエチルアニリンを塩基として使うと同時にメチルホスホン酸ジフロライドに水を加えた。 化学を専攻した土谷正実の目から見ると、遠藤誠一が本気でサリンを合成しようとしていたかどうか分からなくなってくる。 いずれにしろ、北海道大学医学部を卒業した遠藤誠一の口から真実が語られることはないであろう。 遠藤誠一の言葉の中で唯一信用できる言葉は 「死刑になるのが怖いんですよ」。 死刑を免れるために遠藤誠一は必死で大ウソをつきまくってきたのである。 | 200708-22 15:27:57 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] (P50 地下鉄サリン事件―3月17日警察は防毒マスクを準備 第13原則) 遠藤誠一と共に教団の科学技術部門のトップに君臨した村井秀夫は、土谷が初めて村井秀夫に逆らった後、土谷正実をホテル浦島に呼び出した上でホテル浦島に大量の公安刑事を連れて来た。 村井秀夫は土谷正実を第2サティアンにとじこめた後刺殺され、その直後土谷正実が逮捕された。 紙面が残り少なくなってきたので、もうそろそろAUM13の第13番目の公式を述べなければならない。 AUM13の第13番目の公式とは、すなわち 「平成7年3月17日、警察当局は防毒マスク等を準備した上で陸上自衛隊大宮駐屯地に集結していた」。 歴史を愛する人や、将来歴史を専門的に学びたいと考えている人には、是非とも今年8月4日付上申書に記した11冊の本を読んでほしい。 真実とは往々にして厚いベールにおおわれているものなのである。 土谷正実はつぶやいた。 「教団外部の人間で、平成7年3月17日よりも前の時点で既に地下鉄サリン事件のことを知っていた者がいる」。 AUM13よ、貴方しかいない。 AUM13よ、まずは松本サリン事件の真犯人と永岡事件の真犯人を見つけ出して欲しい。 それが出来るのはAUM13、貴方しかいない。 報酬のうち一部は前金でお支払い致します。 前金は、平成7年以降にオウム真理教を弾圧するためにつぎ込まれた金額の総額の、1万分の1の額でいかがでしょうか? | 200708-22 15:29:58 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] -------------------------------------------------------------------------------- 終わり 次回からは、事件についての自分の考察を、書き綴ってみたいと思います。ブログ参加者には、最後までつきあって貰います。 | 200708-22 15:32:36 | 黒龍 #Uft.EJpk URL [ 編集 ] |