仏教とヒンドゥー教の「山頂」は「一つ=同じもの」であることは先に説明しました。それが「梵我一如」です。 「梵我一如」はヴェ−ダ聖典中の古ウパニシャッドの中において、そのゴ−ル、頂点として明示されている境地です。具体的には次のような聖句によって示されています。 「ブラフマン(梵)は、このア−トマン(我)である。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 二・5、19) 「それはア−トマン(我)を知った、『ア−トマン(我)はブラフマン(梵)である』と。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 四・4、25) 「これはじつに偉大にして不生なるア−トマンである。不老・不滅・不死にして恐怖を離れている。恐怖のないブラフマンである。」(ブリハダラニヤカ・ウパニシャッド 四・4、25) 『岩波 仏教辞典』の「梵我一如」の項を見てみますと、 「バラモン教の根本思想の一つ。ヴェ−ダ聖典の終結部をなすウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と個人存在の本体であるア−トマン(我)とは同一であると考えられた。 この知識を得ることによって解脱が達成される。この思想はインド哲学の主流をなすヴェ−ダ−ンタ学派中のシャンカラを開祖とする不二一元学派によって理論的に整備され、今日に至るまでインド思想の主流を形成している」とあります。 更に「ブラフマン」の意味については、『岩波 仏教辞典』の「梵」の項に説明があります。 「祈祷の文句ならびにそれに宿る神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ神を左右する原動力とされ、さらに宇宙の根本的創造力の一名となった」 更に「ブラフマン」の説明について、中村元博士の本を見ると「世界に生気を与えて動かしている聖なる原理」「究極の本源的な原理」「自然の奥にある活力であり、万有を形成し支持するものである」 「後代のインドにおいては、一般に「ブラフマン」という語はもはや原義を喪失してしまった。正統バラモン系統の哲学においては、もっぱら純粋に抽象的な絶対者そのものを指示する哲学的術語となった」 『中村元選集(決定版)第9巻 ウパニシャッドの思想』 148頁 とあります。 このように、「ブラフマン(梵)」は言わば絶対神を指し示すインド哲学用語です。 実際には「ありとあらゆるものと全ての事象の背後にあり、かつ浸透し、ありとあらゆるものと全ての事象を形成し、支持し、破壊するもの。形成機能(側面)をブラフマー神。保持機能(側面)をヴィシュヌ神。破壊・再創造機能(側面)をシヴァ神として呼ぶ」との認識を現代聖者たちが説いています。 さて問題なのは、「梵と我」二者の関係です。 多くの人々が「梵我一如」とは「個人の我」が「絶対神である梵」に近づいて行き、遂には「一つになる」ことと思い違いしています。 (特にオウム脳患者に多い。「神に近づく・・・」「神になる・・・」などの勘違いは教義の至る所にある) はっきりと言いますが「梵我一如」の「一如」は「一つになる」という意味ではありません。 「一如」の「如」は「如し」の意味ではなく「同一・イコ−ル」の意味です。 事実、ウパニシャッド聖典では先に見た通り「梵」と「我」が「同一である」との表現になっています。 ですから「梵我一如」とは「梵」と「我」が一つになることではなく、実は「元々一つのもの」これが正しい意味です。 ウパニシャッドで「梵と我はイコ−ル(同一)なり」と言明する時には、次の三点を意味しています。 1.梵我一如とは、最初から梵と我が完全に同一だと言明するものである。 2.ブラフマンとア−トマンは「同一の存在の二通りの呼び名」に過ぎない。 3.2を受けて、つまり「梵と我」という二通りの呼び名が有ること自体が、一つの方便なのである。両者を同一とする表現が方便なのではない。 前にも書きましたが「大海と一個のコップ」の喩えを出します。 大海にコップを沈めます。するとコップの中は海水で一杯になります。この時、コップの中の海水とコップの外の海水は完全に同一の海水です。コップには蓋がないので、コップの内と外の海水は連続しています。よって、コップの外と内の海水は「同じ海水」即ち「一如」です(大海は無限定の梵を意味し、コップは人の個体の限定枠を意味します) コップの内側から見た「海」をア−トマンと呼び、概念的な「海」をブラフマンと呼ぶだけのことです。 「コップ=個体」は「大海=梵」の外に出たことは一度も有りません。大海の外に出ることは不可能なのです(人が宇宙の外に出られないのと同じ事です)梵と我は、コップで仕切られた「内と外」、両側から見た「絶対神」の二通りの名称です。 よって、両者は最初から同一のものです。 |