一部の仏教徒は「梵(ブラフマン)=絶対神」の存在を否定します。その否定の理由としては、次の三点が挙げられるでしょう。 (理由その一) 仏教とヒンドゥ−教は根本的・決定的に違う宗教だから。 (理由その二) 釈迦牟尼がブラフマンの語を使用して、絶対神を肯定した記録はない。これは釈迦牟尼が絶対神の存在を一切認めていなかった事と解釈できるから。 (理由その三) 釈迦牟尼が使用した「アナ−トマン」という言葉は「ア−トマン」に否定の「ア」を付けた言葉であり、ア−トマンの否定であるから、梵と我が一如であるならば、当然、ブラフマンも否定されることになる。 こうした見解は、この見解を持つ人たちが釈迦牟尼の瞑想法を全く理解していないことであるに過ぎません。 釈迦牟尼がブラフマンという言葉を使用しない理由は明らかです。 そもそも釈迦牟尼の瞑想法は本質的に「智慧のヨ−ガ」の手法です(理由は先に示しました)「智慧のヨ−ガ」は「常住不滅にして真なるもの」を探究するために、理性(ブッディ)を駆使し、否定(ネイティ)の剣を使って「これではない。これでもない(ネイティ・ネイティ)」と「常ならざるもの・真ならざるもの」を徹底的に削り落として行く瞑想手法です。こうして、否定に否定を重ねて行った果てに、 それでも「どうしても否定できないもの」に突き当たるならば、正にそれに意識を集中して瞑想して行くのです。 こうした瞑想手法にあっては「名色」が真っ先に否定されます。 「名色」とは「記号・文字・言葉」という「名」と、「いつか必ず崩壊する運命の、有限なる物質」の「色」です。これらは「常住不滅にして真なるものとは言えない事」が明白ですから、真っ先に否定されます。 「智慧のヨ−ガ」の実践行では「ブラフマン」という言葉「名」の使用は無意味であるばかりか有害です。言葉「名」によって使用者が勝手なイメ−ジを持つことはそれは「正しい瞑想」を妨げる障害物になってしまいます。勝手なイメ−ジが「偶像」となり、気付かないうちに偶像礼拝になってしまう可能性もあるからです。 故に釈迦牟尼が大成した「智慧のヨ−ガ」では、ヴェ−ダ聖典等に出てくる「神々の名前」を厳格に忌避したわけです。こうする事で偶像礼拝に陥る事なく「常住不滅の真なるもの」に意識を集中して行くのです。 以上が釈迦牟尼が「ブラフマン」の語を使用しなかった理由です。 つまり釈迦牟尼は絶対神を否定してはいませんでした。 「無記」としていただけです。 そもそも、仏教が「常住不滅にして真なるもの」を否定する宗教であるはずがないのです。 「真なるもの」の存在を全部否定するならば、そういう仏教徒は、古くから大乗仏教の中でも「方広道人」(「大智度論」序論参照)と呼ばれ「邪空」に執着して結局「虚無」に落ち込んでしまう「外道」と位置付けられています。 論理学的にも「神に相当する言葉」を出さずに「神」を否定することはできません。 それに「絶対神の呼び名は使用禁止」の立場を貫きながら、釈迦牟尼の「智慧のヨ−ガ」の手法を正しく信者たちに伝えて行くことに困難を感じた密教徒は禁を少しだけ破って「絶対神」に対して、「真如」「法身」「大日如来法身」「本地身」等々の呼称を当てました。 この事実を見ても仏教や密教が「絶対神の存在」を否定していないことは明らかです。 もしも「絶対神」を否定する宗教が有るならそれは「邪道」です。無神論の立場で「釈迦牟尼の無我説」を教えるならばこれは「ナンセンスな無我説」になります。そして、こういう「インチキ無我説」を信じた人は、善悪の判断もなしに「我」を捨てようとして無力化してしまいます(日本人仏教徒の多くがそうなのはなんとも悲しいことです) これは「非我」も同じことです。 結論として「無我・非我」「真我」は結局同じことを言っているのです。 「我」を「個体意識」とするなら(仏教徒はそう定義します)「無我」は「個体意識が消えて真我(梵)の意識になった状態」と言えます。 「いやいや。個我は幻想だし真我や梵我なんて無いよ。幻想だよ」と言う人(仏教徒)も居るでしょう。 しかし、そもそも悟った人を「仏陀(ブッダ)」と言います。これは「目覚めた意識」とか「意識が目覚めた人」を意味します。 個我や真我梵我が幻ならば一体何に目覚めた意識というのでしょう? もちろん真理です。 で、釈迦牟尼は「ヴェーダの達人」なので「ヴェーダの真理」である「梵我一如」を悟った。 ならば「無我」とは「個体意識(我・個我)」が消失し、「梵我(大我)」意識になったことを意味します。 もちろん釈迦牟尼・仏教もヨーガも「空」や「エンプティネス」「ナッシングネス」という「セルフ」=真我(梵)の先を用意してはありますが。 |