まず、 「無我」「非我」の話をする前にこれを押さえておいてください。 インドには様々な種類のヨ−ガが有りますが「智慧のヨ−ガ」も釈迦牟尼誕生以前の遙か昔から存在し、ヴェ−ダ聖典にも智慧(理性=ブッディ)を用いたヨ−ガの手法が散見されます。 これが「ギャ−ナ(智慧)・ヨ−ガ」です。 このヨーガがムンダカ・ウパニシャッド成立の時代にまで来ると、その中で明確に「汝自身を知れ」(ムンダカ・ウパニシャッド二・2、5) と説かれるようになり、自分自身の心の奥底に、魂の源に集中し瞑想して行く手法が、このヨーガの技法の中心にして奥義となっていきます。 こうした点からすると、釈迦牟尼は「彼独自の瞑想手法を創始した」のではなく伝統的なバラモン教の「ギャ−ナ・ヨ−ガ」の大成者、と位置付けるべきだと言えます。 まさに仏教の核心は「汝自身を知れ」だからです。 ただし後の大乗仏教徒たちは、釈迦牟尼の「智慧のヨ−ガ」を、従来のヴェ−ダ的な「ギャ−ナ・ヨ−ガ」と分けて扱うために「ギャ−ナ」の類義語「プラジュニャ−」の方を好んで使い「自分たちはプラジュニャ−(般若)ヨ−ガ行者である」としたと理解すべきですし、後述しますが「それが仏教徒の矜持」です。 (サンスクリットの「プラジュニャ−」がパ−リ語訛りになると「パンニャ」となります。「パンニャ」が中国語に変換される時、音写で「般若」という当て字が使われ、これが日本に伝えられて「ハンニャ」となりました) 視野の広いヒンドゥ−教徒(多くのヒンドゥー聖者や信者たちはそうですが)は、釈迦牟尼のことを「釈迦牟尼はヒンドゥ−教の諸聖者の中の一人に過ぎない」と見ます(少数の偏狭なヒンドゥ−教徒は釈迦牟尼を異端としますが) 逆にこうした見方に「ふざけるな!」と強い嫌悪感を示す仏教徒もいますし、いるでしょう。 「釈迦牟尼は、ヒンドゥ−教とは違う、絶対の真理について教示下さったのである! 我々は堅くそう信じている!」これが仏教徒としての一般的な認識と矜持でもありましょう。 人間はどうしても自分が信じている宗教が一番であると思い込み勝ちです。そして自分の知らない他の宗教を「悪魔か仇敵」扱いして排斥する事になります。 これは「自分が、自分が…」と我を張る高慢心と言えます。 ユダヤ教徒に対するキリスト教徒の感情も、ヒンドゥ−教と仏教のそれと同じような関係にあります。 ところで、 「仏教は、ヒンドゥ−教とは全然別個の「新しい真理」について教える宗教である」 「仏教は反バラモン教である」 「梵我一如は仏陀の悟りの境地ではない」 こうした見方は正しいのでしょうか? 釈迦牟尼は自分の事を「ヴェ−ダの達人」と自称した記録が有ります。 『ブッダのことば(スッタニパ−タ)』(岩波文庫・中村元 訳)の第四五八、四五九、五二八、五二九詩節にある この釈迦牟尼の「ヴェ−ダの達人」発言の意味は「私はヴェ−ダ聖典が教えている『究極の目的』に到達してしまった(という意味で)ヴェ−ダの達人である」という意味だと理解されます。 「ヴェ−ダ聖典」の奥義が「梵我一如」である事については明示されていますし釈迦牟尼が「ヴェ−ダの達人」と自称している以上「梵我一如は釈迦牟尼の悟りの境地でもあった」と見るべきです。 また『サンユタッタ・ニカーヤ』には次のような釈迦牟尼の言葉があります。 『ブッダ 悪魔との対話(サンユタッタ・ニカーヤU)』(岩波文庫 中村元博士訳148頁) 「バラモンよ、戒めに安住している人は法の湖である。・・・そこで水浴した、知識に精通している人々、肢体がまつわられることのない人々は、彼岸に渡る。 真実と法と自制と清浄行・・・これは中(道)に依るものであり、ブラフマンを体得することである」 (第7篇第一章第九節17) はっきりと「ブラフマン(梵)を体得することである」とあります。 ですから間違いなく、何の疑いも持つことなく、疑いようも無く「梵(ブラフマン)」を体得する奥義「梵我一如」は、釈迦牟尼の悟りの境地でもあったのです。 だからといって、誰かに「釈迦牟尼はヒンドゥ−教の諸聖者のうちの一人に過ぎない」と言れたとしても「その通りですね」と胸を張って答えるべきです。 こんな事で仏教徒の自尊心が傷つくのなら、そんな自尊心は捨てるべきです。 「仏教はヒンドゥ−教の一流派」という見解が真理だとしても、この事で仏教の偉大さが損なわれることはありませんし、ヒンドゥ−教に引け目を感じる必要もありません。 「山頂は一つ。しかし、登山道は色々」この見方こそが真理です。 |