![]() 아벨(Abel)さんのメッセージ(#22581)への返事 > 解脱悟りを得る、それも人間社会の中で解脱悟りを得る方向性が > どのような位置づけになるのか・・・ 諸々の苦しみや悩みからの解放と、心の平安を得ること。 釈迦は、すでに解脱しているにもかかわらず、弟子達のために、 本来は「自分には、すでに必要のない教え」を対機説法として説き、 その教えの実践者としてのスタイルを、40年に渡って貫いてきました。 そして、もうすぐこの世を去る、という時になって、 初めて、その修行者的なスタイルから、 解脱者としての本来の姿に戻って、次のように述べているのです。 「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい。 ゴータマカ霊樹は楽しい。サッタンバカ霊樹は楽しい。 バフプッタ霊樹は楽しい。サーランダダ霊樹は楽しい。 チャーパーラ霊樹は楽しい」 「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」 (マハー・パリニッバーナ・スッタンタ/命を捨てる決意) 対機説法とは、何でしょうか? それは、「弦の譬え」として表現することが出来るでしょう。 楽器の弦は、緩すぎても締めすぎても、正しい綺麗な音色は奏でられません。 そのために、緩すぎている場合には、「引き締めること」を教え、 その逆に、絞めすぎている時には「緩めること」を教えるのです。 ここで肝心なことは、「緩めること」「引き締めること」という教え自体には、 絶対的な正しさなどは無く、そこに普遍的な善悪(正・誤)は存在していないのです。 ですから釈迦は、他の教えの中で「筏(いかだ)の譬え」を使って、 河を渡ってしまった(目的を得た)のならば、その為に利用した筏(教え・法)は 用途を終えたのだから、いつまでも持ち歩かずに、捨て去りなさいと説いたのです。 学者達は、知的欲求を満たすために、自説をあれこれ考え、それに囚われますが、 釈迦には、そのような欲求はなく、自説に囚われることも無かったのだと思います。 ただ、当時の弟子達に、目的に到達させるための「道具」として利用しただけなのです。 [認識方法と認識対象の]二つは自立的に存在しない。 もし認識方法とその対象との二つが本体[実体]として存在しているなら、 認識方法[がある]、認識対象[がある]などと言われることもできよう。 しかるに、[相互に]依存して存在しているということは 相互に成立させあうという意味であって、 それは自立的存在[客観的実在]ではないのである。 (ナーガールジュナ、梶山訳、『ヴァイダルヤ論』、2) > > カルマ(行為の果報としての形成作用)の働きに関しては、 > > 私は現在では、(仮説された)個我の持つ五蘊の中の「行」の働きとして捉えています。 > > ある程度はわかるような気が。これ以外の考え方として成り立ち得るのはどういう解釈か > という演習などもしてみたい感じ。 その、色々な解釈をあれこれと考えることによって、 今抱えている苦悩が減るというのならば、 それも有効な方法なのかも知れませんね… |