![]() キャンディさんのメッセージ(#20022)への返事 > 以前にネットでだったか、日本仏教協会?(違うかも、よく覚えてない)だったかが > (輪廻は存在しない)って結論づけた、って話を、読んだのよ ほー、それはそれは… > 漏れはきょとんとした > オウムでは輪廻転生があると、当然のごとく言ってたんで > 気の毒に、仏教を学んでも縁の無い人は間違ったことを教わるんだと > 思ったが、一方で権威のある人らがそう間違ったことを言うはずないなと 「権威のある人らがそう間違ったことを言うはずない」 これを心理学では「威光暗示」という心理的な作用なのだと説明しています。 これは、一種の「盲信(思い込み)」だと言えるでしょうね。 > で、何を根拠にその仏教協会が輪廻は無いと言い切ったのか、調べてないから > しらんが、その後、ボチボチ本を読むに > (すべては無常であり、苦であり、非我だか無我だから、実存しない)と > いうならば、(自分自身も実在しないはずの五蘊で構成されているんであって > じゃあ、自分というのは実在しない)(じゃ、実在しないはずの自分が輪廻するはずない) > という理屈なのかなあ、と思った 【自分自身も実在しないはずの五蘊で構成されている】 この部分は、ちょっと違いますね。 五蘊とは、「自分自身がそこに在る」という認識(手がかりとなる証拠)を、 生起(感受)させてくれる「対象」の集まりを示す言葉なのです。 つまり、目は目を直接見ることは出来ないけれど、 例えば自己を映し出す「鏡」が目の前にあれば、そこに映る自分の姿を見ることが出来ます。 しかし、その対象はあくまでも「虚像」なので、目そのもの(実像・本物)ではありません。 五蘊とは、つまり、自己が投影された「虚像の集合体」のことなのです。 自分がちゃんと存在してるんだと、自分に認識させてくれる「対象」の集まりなのです。 ですから、その「虚像」を構成する五つの要素も、 その集まりによって形成されている全体としての自己像も、自己そのものでは無いのです。 だから釈迦は、「五蘊非我(それは、アートマンではない)」の教えを説いたのです。 そして無我とは、自己に関わる問題というよりも、もっと一般的な意味で使われていて、 森羅万象の全ての存在には、不変的な実体など無く、縁起によって生滅するだけの、 「無常(変化する一時的な現象)」があるだけなのだ、という意味で使われるのです。 > なんで真我はあるということになったのか > ご説明ください 正しくは「無いわけではない(否定の否定)」と言っているのです。 「ある」と言ってしまうと、「言葉の持つ虚妄性の罠」に落ちてしまうから… > 漏れも知識がないんで、変なことをわめいているかもしれんが > 輪廻の消滅には、我の消滅が必要なんじゃ、と > うっすら想像してます > 我があったら、そこから展開していくんですよね あのね、輪廻をしているのは「自己」では無いのです。 輪廻をしているのは、自己を認識させている「五蘊(虚像)」の方なんです。 五蘊は、森羅万象(有)の中に含まれるから、それは無常の存在ですよね。 常に変化して、生じたら必ず滅する(崩れ去る)ものなのです。 そうすると、五蘊を自分だと同一視してしまっているいる自己は、 まるで、自分自身も崩れ去ってしまうような錯覚(自己喪失の恐怖)に襲われる。 そこで、一生懸命に、何とかそれを食い止めようとする。 これは、砂浜で、砂のお城を一生懸命に造っている子供の状態に似ているんです。 お城が大好きな子供は、砂を使ってそれを完成させようとします。 しかしそのお城は、砂で出来ているので、しばらくすると崩れてしまいます。 だけどそれが嫌だから、子供はそれをまた造り始めるのです。 造っては崩れ、そしてまた造っては崩れていく… その繰り返しが、果てしなく延々と続いている状態、これが輪廻なんです。 「崩れ去るのが嫌で、何とか砂の城を保持したい」と必死に願う心の働き、 これが、釈迦が言っている「生存渇愛」という煩悩なんです。 そしてこの煩悩が、新しい(次の)五蘊を生起させる因なんですね。 つまり、輪廻を継続させる「行(潜在的な形成力)」となるのです。 五蘊が自分自身だと思いこむ錯覚(無明)によって、 それを何とか保持したいという欲求(行・生存渇愛)が生まれるのです。 > それとも(我はある、いや無い)と(考えている)こと自体が > すでに間違ったことなのかもね 「ある」と見てしまうのは「常見」で、「ない」と見てしまうのは「断見」です。 これらは共に「対象」に対する認識の種類を示しているのです。 認識の持つ二つのパターン(ある・ない)をね。 認識というのは、対象に対する働きなので自己そのものには使えないのです。 そこで、無理やり自己を対象化して認識しようとする… すると、自己は自己では無くなり虚像化してしまうので、 パラドックス(矛盾・迷妄・無明)の罠に落ちてしまうのです。 > 釈迦はサマディを煮詰めていって、最終段階で > (この考えるということは、劣ったことである)として > 滅想受だか、想受滅だかに、入ったんだとか? 「考える」ということが劣っているとは思いませんが、 「明智」を得ていない状態の思考には、限界(無理)があるのです。 これは、ジグソーパズルの遊びに似ています。 10個のピースのパズルを完成させるのは簡単でも、 100個のピースだと難しいでしょ? 1000個の場合ではどうでしょうか? つまり、分析すればするほど解りにくくなってゆく… そして、予(あらかじ)め、 そのパズルの「完成図(全体の絵)」が解っていないと、 ピースを正しく組み立てることは不可能に近いですよね。 明智とは、この完成図を知る(直視する)能力のことなのです。 ですから、この能力を得てから思考した方が、 途中で悩んだり迷ったりしなくて済むので、楽でいいと思いますよ。 釈迦はこの状態を「慧解脱する」と表現していますけどね。 この「明(智)」は、自己が真我を「自覚」した瞬間に、 その「自覚」の副作用として発現するのです。 つまり、自己が何かということが解った瞬間に、 自己以外のモノ(一切という全体図)が何か、ということも自動的に解るのです。 一種の反動形成ですよね、これは… |