以前にネットでだったか、日本仏教協会?(違うかも、よく覚えてない)だったかが (輪廻は存在しない)って結論づけた、って話を、読んだのよ 漏れはきょとんとした オウムでは輪廻転生があると、当然のごとく言ってたんで 気の毒に、仏教を学んでも縁の無い人は間違ったことを教わるんだと 思ったが、一方で権威のある人らがそう間違ったことを言うはずないなと で、何を根拠にその仏教協会が輪廻は無いと言い切ったのか、調べてないから しらんが、その後、ボチボチ本を読むに (すべては無常であり、苦であり、非我だか無我だから、実存しない)と いうならば、(自分自身も実在しないはずの五蘊で構成されているんであって じゃあ、自分というのは実在しない)(じゃ、実在しないはずの自分が輪廻するはずない) という理屈なのかなあ、と思った なんで真我はあるということになったのか ご説明ください 漏れも知識がないんで、変なことをわめいているかもしれんが 輪廻の消滅には、我の消滅が必要なんじゃ、と うっすら想像してます 我があったら、そこから展開していくんですよね なのに(真我がある)という設定に戻してしまうの? それとも、我はない、と知覚する(なにか)を真我と呼ぶことにしたの 昔釈迦の時代、宗教論議が盛んだったころ、論敵同士で試合して まけたら入水するってのがあったんだと なんか、宗教は面倒や争いのタネにばかりなっているみたいな それとも(我はある、いや無い)と(考えている)こと自体が すでに間違ったことなのかもね 釈迦はサマディを煮詰めていって、最終段階で (この考えるということは、劣ったことである)として 滅想受だか、想受滅だかに、入ったんだとか? |