![]() キャンディさんのメッセージ(#20021)への返事 > 結局、真我はある、という話になったの、、 この「ある」という言葉は、 何処かに「(認識の対象として)在る」という意味ですよね。 何処かを探せば見つけることが出来るモノだ…とね。 そう言う意味では、真我(自分そのもの)は、 「認識の対象外」なので、見つけることは出来ません。 目は、目そのものを見ることは出来ない。 刀は、刀自身を切ることは出来ない。 ですから、それを認識することが出来ない(不可知)という意味では、 「ある」とは言えないのです。 「我思う故に、我有り」という言葉があるけど、 思おうが、思うまいが、自分はいますよね。 思考を停止したら(思うことを止めてしまったら)、 じゃあ、自分はいなくなるのか?と言えば、そんなことは無いのです。 ただ、自分の存在を確認できる「何か(手がかり)」が消えてしまうだけ。 そうすると、自己喪失感に囚われてしまって不安になる(無明)。 そこで、自分を安心させてくれる「根拠」を探し始めるのです(行)。 そこから迷妄の連鎖が起きてしまうのです。 > 麻原の擁護がしたいわけ? > 漏れが(麻原が真我が流転する)って説は > 釈迦は無我を説いたのに、馬鹿じゃないの、って > 散々こき下ろしたから、 > ムキになって > 真我はあるんだ、って言ってた奴がいて > 気に入らないんだけどね 彼の教え(真我に関する部分)は、仏教ではなくて、 「サーンキャ哲学」という、インド思想をアレンジして真似たものなのです。 それは「二元的多元論」と呼ばれているもので、存在するモノを、 主体(自己・知覚するモノ)と客体(他・知覚される対象)の二つに分け、 その主体自身も「個別的に」多数存在している、と考える思想なのです。 > だって、真我を知るっていったら、真我はあるって、定義なんでそ > ちょっと、詳しい論議調べてないんでわかんないんだけど > みなさんは、真我があるということにしたんだ? 「真我はあると定義する」と、間違い(誤解)を生じてしまうのです。 「ある」という言葉(概念)から生じる思考(認識・受け止め方)は、 「あるとすれば、それは何処かにあるに違いない」という、 心理的な「連鎖反応(条件反射的な連想)」を引き起こすのです。 そうすると、外界(現象世界)に対しては五感(眼・耳・鼻・舌・肌)で、 内界(心象世界)に対しては、六番目の感(意)を使って、 それ(真の自己)を確認したいという衝動(行)が生じてしまうのです。 「ある」とするならば、、それは「何処に」あるのだろうか? という、間違った「思考の連鎖反応」に囚われ始めてしまうのです。 > じゃあ、麻原が(真我がニルバーナから落下して流転する)とした > 定義に、異論はないということなの? > 漏れは、麻原が仏教理解があまりないのに適当にヨガとかとくっ付けて > 自分のわかりやすくアレンジしたと思いましたよ キャンディちゃんの考え方で、合っていると思いますよ。 その考え方が間違っていると、私は一言も言っていませんから。 > 少なくとも麻原はそこまで細かく考えるよりも > 金もうけのためにわかりやすい説をとったと思っている 彼は、元々ヨガ行者でしょ? ヨガの根本経典を頼りに修行をしたと言っていましたよね。 それが途中から、仏教を取り入れて、 自己流にアレンジして教えを説き始めるようになった… > まあ、釈迦は、形而上のことは語らないというやり方をして > んなことは知らなくても、苦はあり、苦は起き上がるから消滅させておけ > 目のある人はそれだけやればいいんだ、と > 言ったようで まぁ、似たようなことは言ってましたよね、確かに。 > だって、あるとか、ないとかギャアギャアいうけど > 見たことがねえよ、と普通は言うが、麻原の家では(アタシは見た)って奴がいるわけ、、 > 麻原は真我を見たって > あそこで丸くなって大きくなったり小さくなったりしていたって それが事実だとすれば、その時点で、 彼は、釈迦の言っていたような「解脱」や「悟り」を得てはいなかった、 ということが言えるでしょうね、確実に。 瞑想の怖いところは、「見たいモノが見えてしまう」、 「体験したいことを体験できてしまう」ということなんです。 瞑想の対象となる「心象世界」を造り上げているのは、自分の心なのですから… 釈迦の言行録(アーガマ)を読んでみると、 彼の教えていた瞑想は、何かを「観る(体験する)」という瞑想ではなくて、 観た後で、それらの対象を一つ一つ消してゆく(そこから離脱する)瞑想を指導しています。 四禅定の第一段階では、まず「尋」と「伺」とを確認します。 そして、それを消す(離れる)と、次の「喜」が、より鮮明に顕れてくる。 太陽が見えていると、その光に遮断されて他のモノが見えずに太陽しか見えません。 しかし、その太陽を消すと、今度はそれまで見えなかった月が見えるようになります。 そしてさらに月を消すと、こんどは星がはきりと見えるようになる… ひとつ説明をしておくと、四禅定は「色界の瞑想」ではありません。 深まっていく瞑想の状態を、四段階に分けて説明したものなのです。 だって、「尋」や「伺」、「喜」や「楽」といった、 四禅定の中で確認するそれらの要素に「形状(色や形)」などがあると思いますか? まぁ、「ある」と思うと、それが見えてしまうのかも知れませんね。 私は、色界の瞑想とは、四禅定とは別のもの(他の瞑想法のこと)だと考えています。 四禅定から四無色定へそのまま移行することは出来ません。 四禅定の第四段階の次の段階で、「空無辺処」が顕れて来るわけでは無いのです。 四無色定の「空無辺処」へと移行するためには、 「四大(地・水・火・風)の瞑想」から入る必要があるのです。 地 → 水 → 火 → 風 そして、→ 空 なのです。 (これらの4つの「元素」には、それぞれ特有の「色」があるとされているのです。) |