![]() 아벨(Abel)さんのメッセージ(#19995)への返事 > マハーヤーナの部分については夢野さんの言っておられることも >和井さんの解説と同じようなことなのではないかというような気もするのですが、 私の解説というと、以前この掲示板で、夢野さんとお話をしたことですか? 「五蘊もまた自己の範疇に入る、と考えるのが実用的」というような説明を、 以前夢野さんにお話ししてしまったことがあるのは覚えていますが、 「ごめんなさい、あれは私の誤りでした。」 あの時は、まだ一元思想に囚われている部分があって、間違った説明をしてしまっていたのです。 ですから、私のgooブログでの説明記事も、今年の1月18日に再開する以前のモノは、 正直に言えば、その「誤謬」の部分が含まれているままなのです。 > ミクでの和井さん、映画の話とかばかりで >ニセモノではないかという疑心暗鬼もあったのですが間違いなくホンモノの和井さん! ミクシィで、あまり仏教論ばかり書いてもしょうがないですからね、 それに今回は、プロフィールの方にgooブログの紹介文も載せていますので… >山本浣腸さんからお誘いの連絡あったのではないかと思いますが、 >今確認したらにご返事いただけなかったとのことでした。 何処に連絡を頂けたのかしら? もしかして、MSNのHotmailあたりだとしたら、既に使っていないので届かなかったのかも… > 重ねてですけど今日の18時に新宿駅近くで吹田の奥様を囲むオフ会がありますけど >ご都合つきませんでしょうか。しつこくて申し訳ありませんが。 今日?2月14日(土)ですか? 多少の時間なら造れるかも知れませんが… それでいいのかしらね? > > それは、客観視して説明を始めたとたんに、本当の真我では無くなってしまうからです。 > > 複数の比喩で、いろんな切り口から、それに近い概念を語るのでも駄目でしょうか? 真の自己の「不可知性」を正しく理解した上で、方便としてあえて説明してみる、 というのは可能かも知れませんが、理解できていない人がほとんどなどなので難しいですね。 余計な観念を造ってしまう確率の方が高い、というか、ほとんどがそうなってしまいます。 相手の人がすでに「慧解脱」をしているのならば、大丈夫ですけど。 > > アートマンは個の中心にあり認識をするものである。 > > それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、 > > アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。 > > 自分の使ってる電脳網システムからの類推では、集合的無意識の概念の更に延長における > 個と全体との関係において、フラクタル的な「個」って感じが理解しやすい気がするので > すが、確かこの点に関してもお釈迦様は無記とされたのでしたっけ。ワンネスかどうかって > 部分についても。 ふふふ、その考え方は、華厳経の「法界縁起思想」に在る意味とても似ている考え方ですね。 ただ、0元を本当に理解(体得)できていないと、一元が何かも掴めないのです。 0元から一元を掴むことは簡単なのですが、一元から0元を思索(類推)することは、ほとんど不可能ですからね。 数学的には、一元は「全集合」で、0元は「空集合」として捉えることは可能です。 しかし、ここからさらに「全集合」と「空集合」を相対化して捉えようとすると、 その「全集合」は部分集合となって(全集合では無くなる)しまい、 空集合も単なる部分集合に変化して(空集合では無くなる)しまいます。 そして、さらに0と1とを包括した「新しい(?)全集合」が出来上がるかのように見えてしまうのですが… しかし、実際には依然として、本当の「空集合」は、その新しい「全集合」の範疇外にあるままなのですね、。 う〜ん、禅問答のようになってしまった… > > 【アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。】 > > この言葉の意味を、誰も本当に理解することができないのは、 > > いったい何故なんでしょうかね? > > 【「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。】 > > 釈迦は、この正統な方法に即して「五蘊無我(非我)」を説き、 > > 真我そのものの説明については「無記(沈黙)」を貫いたのです。 > > このご説明はよく理解できます。 > > > 真我を客体視(観察の対象化)して、あれこれと考えることは、 > > 解脱や悟りを得るための「大きな障害」になるのです。 > > 以前上祐さんに直接質問したときも、 >言語化しての説明は不可能と言われましたです。 河本理治さんとの対話を続けていて、ようやく彼の言っている意味が、 チベット仏教などで説いている「識相続(意識の連続体・業異熟果)」のことだと解りました。 しかしこれなども、「無我」の意味が解らずに、「真我の身代わり」を創り上げてしまった誤謬なのですね。 これに囚われ続けている限り、真の解脱や悟りは掴めません。 瞑想は、心の世界を観るものですから、「観たいモノが見えてしまう世界」なのです。 ですから、「識相続(意識の連続体・業異熟果)」などを想定して、 それが「在る」と思ってしまっていれば、それが見えてしまう世界なのです。 つまり、「思想」などの視覚化、体験化という現象を造り上げてしまうのです。 釈迦が採用した瞑想法とは、逆に「心に観えるモノを全て消滅させていく」瞑想法なのです。 そして最後に残るのが「何もない(無相)」という最後の観念。 これを消滅させることによって、心(内なる世界・内界)の解脱が完成し、 心に依って造り出されているのではない(外なる世界・外界の)、 物質的な「肉体」だけが対象として残ったままとなるのです。 いや、この説明も不十分ですね。 この肉体も、実は心が造りだしたモノだと言えなくもない(否定の否定)。 しかし、心の世界とは違って、「相転移(質の変化・念の物質化)」が起きてしまっている世界なのです。 ですから、特殊な瞑想によって、時間をかけて肉体そのものを「変化」させられないこともない(否定の否定)。 チベット仏教で説く「虹の身体」や、仙道などの「陽身」や「還虚」などのようにね… でもこれは、次元の異なる話しですし、ここでそれを取り上げても意味がないのです。 |