今日は誰もこないんですね、、 丁度いいので、ミクソの仏教コミュからいいものを拾ったので転記します まあ、基本中の基本ですが、仏教を学ぶものが最初にしるべき、四諦についてです この四諦(四つの聖なる真理)にのっとって、物事を見ることを正見というと (『原始仏典 【第二巻】 長部経典A』[春秋社]P396から) [四つのすぐれた真理について、もろもろの事象を観察する] 一七、「またさらに修行僧たちよ、修行僧はもろもろの事象すなわち四つのすぐれた真理(四聖諦)について もろもろの事象を観察するのである。 それでは、修行僧たちよ、修行僧はどのようにしてもろもろの事象 すなわち四つの すぐれた真理について事象を観察するのであろうか。 ここに、修行僧たちよ、修行僧は 『これは苦しみである』とありのままに知り、 『これは苦しみの原因である』とありのままに知り、 『これは苦しみの消滅である』とありのままに知り、 『これは苦しみの消滅にいたる道である』とありのままに知るのである」 [苦しみのすぐれた真理とはなにか] [305]一八、「それでは、修行僧たちよ、苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか。 生れることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、病気になることは苦しみであり、死ぬことは苦しみであり、 憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えは苦しみである。求めても得られないということも苦しみである。要するに、 [個人存在を構成する]五つの執着の要素(五取蘊)は苦しみである。 さて、修行僧たちよ、生れることとは、いったいなにか。 それぞれの生きものが、それぞれの生きものの群れに、生れること、発生し、入胎し、再生し、 [個人存在を構成する]要素が出現し、認識領域を獲得すること、これが、修行僧たちよ、生まれることといわれる。 また、修行僧たちよ、老いることとは、いったいなにか。 それぞれの生きものが、それぞれの生きもののなかで、老いること、老衰し歯が抜け白髪になること、 皮膚に皺がよること、寿命が短縮し、感覚器官が老化すること、これが、修行僧たちよ、老いることといわれる。 また、修行僧たちよ、死ぬこととは、いったいなにか。 それぞれの生きものが、それぞれの生きものの群れから、没し、死没し、壊れ、消失し、死亡し、死滅し、 命終し、[個人存在を構成する]要素が破壊し、身体を放棄すること、これが、修行僧たちよ、死ぬことといわれる。 また、修行僧たちよ、憂いとは、いったいなにか。 修行僧たちよ、なんであれ、なんらかの不幸に見舞われて、なにか苦しいことを経験している人の、憂い、愁い、 愁いの状態、内なる憂い、内に広がった憂い、これが、修行僧たちよ、憂いといわれる。 また、修行僧たちよ、悲しみとは、いったいなにか。 修行僧たちよ、なんであれ、なんらかの不幸に見舞われて、なにか苦しいことを経験している人の、悲泣し、 ひどく悲泣し、悲しんで泣き、ひどく悲しんで泣き、悲泣させられ、ひどく悲泣させられること、これが、修行僧たちよ 、悲しみといわれる。 また、修行僧たちよ、苦痛とはいったい何か。 修行僧たちよ、身体の苦痛、身体の不快、身体に接触することから生じる苦痛、不快の感受、これが、修行僧たちよ、苦痛といわれる。 また、修行僧たちよ、苦悩とは、いったい何か。 修行僧たちよ、心の苦痛、心の不快、心の接触から生じる苦痛、不快を感じること、これが、修行僧たちよ、苦悩といわれる。 また、修行僧たちよ、悶えとはいったい何か。 修行僧たちよ、なんであれ、なんらかの不幸に見舞われて、なにか苦しいことを経験している人の、悶え、つよい悶え、 悶えの状態、つよい悶えの状態、これが、修行僧たちよ、悶えと言われる。 [求めても得られないという苦しみについて] [307]また、修行僧たちよ、求めても得られない苦しみとは、いったいなにか。 修行僧たちよ、生れるという性質を持つ生きものにとって、このような欲求がおこる。 『ああ、わたしたちに、生れるという性質がなければよいのに。わたしたちに、生れるということがやって来なければよいのに』と。 しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られないという苦しみである。 修行僧たちよ、老いるという性質を持つ生きものにとって、[このような欲求が起こる。 『ああ、わたしたちに、 老いるという性質がなければよいのに。わたしたちに、老いるということがやって来なければよいのに』と。 しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られないという苦しみである]。 修行僧たちよ、死ぬという性質を持つ生きものにとって、[このような欲求が起こる。 『ああ、わたしたちに、 死ぬという性質がなければよいのに。わたしたちに、死ぬということがやって来なければよいのに』と。 しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られないという苦しみである]。 修行僧たちよ、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質を持つ生きものにとって、このような欲求が起こる。 ああ、わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質がなければよいのに。 わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えということがやって来なければよいのに』と。 しかし、このことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られないという苦しみである。 また、修行僧たちよ、要するに、[個人存在を構成する]五つの執着の要素は苦しみであるとは、 いったいなにか。 即ち、物質的なものという執着の要素(色取蘊)、 感受作用という執着の要素(受取蘊)、 表象作用という執着の要素(想取蘊)、 潜在的形成力という執着の要素(行取蘊)、 識別作用という執着の要素(識取蘊)、 修行僧たちよ、これらが要するに五つの執着の要素といわれるのである。 修行僧たちよ、これが苦しみのすぐれた真理といわれるのである」 |