아벨(Abel)さんのメッセージ(#16195)への返事 > 天理教の現場の多くの信者の素朴な理解としては、心とは表層の心を主体としたもので > あり、一方漠然とした潜在意識、超潜在意識、何よりも輪廻の主体としての実体的な存在 > が魂、・・・ま現世の一般的な理解と同じ・・・なんでしょう。 その主体である「魂」の部分も輪廻する、と考えているのか、 そうではないのか、という問題も最後まで残りますよね。 これなどは、釈迦が回答を拒否した形而上学の問題になりますが。(笑) > よくサマディに入った状態を見ている「何か」という表現されることもあるようですが、 > 多重的多階層的に、そもそも意識っていう概念が非常に難しくて・・・ 「意識」というものは、初めから厳然と存在するもの、なんでしょうか? それとも、データ等の集積によって成立しているもの、なんでしょうか? それとも・・・ この延長線上で考えていったどれかなんでしょうけどね。 > Aで輪廻を超えて持っていけるものとして、功徳、修行上の経験、確か合計四つでしたっけ > あと忘れたw この話とはどう関係するのでしょ? これは、経験というものを洋服のように考えて表現する方法ですよね。 ただね、結局のところ、もし持っていけるものがあるんだとしたら、 それは物質以外全部だと思いますよ。 この合計いくつかという「来世に持っていけるもの」というのは、 修行なるものに意識を縛り付けるためのトリックだと感じます。 なぜなら、悪業でも、この論法でいえば持っていけるのです。 オウム式に考えたって、本当は意識に根付いたものは全部持っていけるのです。 功徳だの、修行経験だの、よさげな物ばかり持っていける、なんてのは 何らかの意図のある言葉ですよ。 > これは刹那滅だがカルマの形成によって連続し、輪廻の中でも継続していくという意味 > なんでしょうか? そうですね。 しかも今後も継続できる、という保証は外してあると。 > アーカシックサーバのデータとして残り、それが今生のクライアントのOSの設定に影響 > してる、っていうような非常にシンプルな比喩でも理解できるかと。ま、凡夫外道式の > 素朴な魂観とほとんど変わるところがないかもしれまへんがwww ま、いわゆるところの信仰心のかけらもない、という人の考えることって、 案外真実を衝いていると思える場合が多いと思います。 唯物論なんてその典型ですしね。 あれは奇しくも釈迦入滅の状態を言い当ててはいます。 問題は「あんたの今生の終わりも、こいつの今生の終わりも同じや!」 と断定しているところにありますがね。 ただね、宇宙のシステムを凡夫が理解しているとは到底思えないのです。 宗教家というのは、間違ってるかもしれないけど、 それなりに論理を組み立てて考えてはいるわけです。 その分、真実に到達する可能性は高いといえるでしょう。 |