![]() 夢野さんのメッセージ(#14617)への返事 > 例えばそれは、この地球よりもずっと大きく、宇宙よりもずっと大きく、 > すべてを包含したもの、これがニルヴァーナと呼ばれるものです。 > そしてこれを別の言い方をするならば真我と呼んでいます。 > で、この真我は、先程述べた識別の働きによって、 > いろいろなとらわれを形成しているのです。 > だから、言い方を換えるならば、 > 真我とエゴというものは同じであるということもできるんだね、これは。 私は、この説法(この部分)は覚えていませんでした^^; 教えてくれて、ありがとー。 > アートマンの説明が少ないために旧団体の悟りが封印されたとすれば、 > 彼はサマディなどで体験はしたかもだが理解はしてない気がする。 確かにそうですね。 それにこれは、「悟り」・「解脱」に至る体験というよりも、 「神通力の発現」に関わる(繋がる)体験と考えた方がいいような気も… 悟りに至るためには、この体験をする前に、絶対に必要な体験が一つあるのです。 ------------------------------------------------------------------------------- 「汝ら修行者たちよ、ある領域が存在し、そこには地もなく、水もなく、火もなく、 風もなく、虚空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、 現世もなく、来世もなく、太陽も月もない。 汝らに告げるが、そこには、来ることもなく、去ることもなく、留まることもなく、 死去することもなく、転生することもなく、よりどころもなく、発展もなく、支えもない。 それが苦悩の終わりである」 (自説経8-1) 「汝ら修行者たちよ、生まれざるもの、形成されざるもの、造りだされざるもの、 構成力から生じたのではないもの〔無為〕は存在する。 もし、このような生まれざるもの、形成されざるもの、 造りだされざるものが存在しなかったとすれば、生まれたもの、形成されたもの、 造りだされたもの、構成力から生じたものから脱出することは、 けっして考えられなかったことであろう」 (自説経8-3) --------------------------------------------------------------------------------- この教典に描かれている体験(あるいは認識)が欠落していると、 その人のアートマンに対する理解は「不完全なモノ」に留まるでしょう。 > ぼく自身はアートマンを物質や精神を夢みる主体のように捉え、 > 文字どおり主体と呼んだりもします。 その表現は「的確」だと思います。 > とはいえあらゆる言葉が非我なのでどう名付けても不正確になる。 この認識が「前提にあって」こそ、言葉を的確に使った「思考」が出来るのです。 > それで不立文字なわけだが、ひとまずアバウトにでも理解すると > おそるべき変容が始まるんですね。 > エゴ(自我)は本来の自分ぢゃなかったことに気づいて、 > 人生がアートマンを中心に回りだす(いわばコペルニクス的)。 > エゴを守る必要性が消えるためその分解が進む。 ああ、夢野さんも、「それ(変容)」をすでに経験しているのですね。 > 和井さんが云われたように悟りの説明は1行で済んでしまう、 > アートマンを発見後は全自動だし。 全自動(オートマティック)、ね。 宇多田ヒカルの歌を思い出しちゃった♪ > 非我の受容に関しては次のとおり。 > 精神が物質の対極であるようにアートマンは非我の対極だと分かる、 > ゆえに経典や導きとして非我に学ぶ。 > アートマン → 非我の順に学ぶ限りは副作用が弱いはずです。 > ちなみに心理学その他、自分の非我やアートマンをひっくるめて自己と云う場合も多いですね。 でも、それがアートマンの「最終形・終極・合一(ジンテーゼ)」になると思いますよ。 その方が「実用的」だから。 > 受容を無限に進めた存在は神仏だと思う。 そうですね、そのとおりだと思います。 |