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#14626 2008年6月25日(水)07時36分
From: 和井 恵
Subject: Re: 

夢野さんのメッセージ(#14617)への返事

> 例えばそれは、この地球よりもずっと大きく、宇宙よりもずっと大きく、
> すべてを包含したもの、これがニルヴァーナと呼ばれるものです。
> そしてこれを別の言い方をするならば真我と呼んでいます。
> で、この真我は、先程述べた識別の働きによって、
> いろいろなとらわれを形成しているのです。
> だから、言い方を換えるならば、
> 真我とエゴというものは同じであるということもできるんだね、これは。

私は、この説法(この部分)は覚えていませんでした^^;
教えてくれて、ありがとー。


> アートマンの説明が少ないために旧団体の悟りが封印されたとすれば、
> 彼はサマディなどで体験はしたかもだが理解はしてない気がする。

確かにそうですね。
それにこれは、「悟り」・「解脱」に至る体験というよりも、
「神通力の発現」に関わる(繋がる)体験と考えた方がいいような気も…

悟りに至るためには、この体験をする前に、絶対に必要な体験が一つあるのです。

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「汝ら修行者たちよ、ある領域が存在し、そこには地もなく、水もなく、火もなく、
風もなく、虚空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、
現世もなく、来世もなく、太陽も月もない。
汝らに告げるが、そこには、来ることもなく、去ることもなく、留まることもなく、
死去することもなく、転生することもなく、よりどころもなく、発展もなく、支えもない。
それが苦悩の終わりである」

(自説経8-1)

「汝ら修行者たちよ、生まれざるもの、形成されざるもの、造りだされざるもの、
構成力から生じたのではないもの〔無為〕は存在する。
もし、このような生まれざるもの、形成されざるもの、
造りだされざるものが存在しなかったとすれば、生まれたもの、形成されたもの、
造りだされたもの、構成力から生じたものから脱出することは、
けっして考えられなかったことであろう」

(自説経8-3)

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この教典に描かれている体験(あるいは認識)が欠落していると、
その人のアートマンに対する理解は「不完全なモノ」に留まるでしょう。


> ぼく自身はアートマンを物質や精神を夢みる主体のように捉え、
> 文字どおり主体と呼んだりもします。

その表現は「的確」だと思います。


> とはいえあらゆる言葉が非我なのでどう名付けても不正確になる。

この認識が「前提にあって」こそ、言葉を的確に使った「思考」が出来るのです。


> それで不立文字なわけだが、ひとまずアバウトにでも理解すると
> おそるべき変容が始まるんですね。
> エゴ(自我)は本来の自分ぢゃなかったことに気づいて、
> 人生がアートマンを中心に回りだす(いわばコペルニクス的)。
> エゴを守る必要性が消えるためその分解が進む。

ああ、夢野さんも、「それ(変容)」をすでに経験しているのですね。


> 和井さんが云われたように悟りの説明は1行で済んでしまう、
> アートマンを発見後は全自動だし。

全自動(オートマティック)、ね。
宇多田ヒカルの歌を思い出しちゃった♪


> 非我の受容に関しては次のとおり。
> 精神が物質の対極であるようにアートマンは非我の対極だと分かる、
> ゆえに経典や導きとして非我に学ぶ。

> アートマン → 非我の順に学ぶ限りは副作用が弱いはずです。
> ちなみに心理学その他、自分の非我やアートマンをひっくるめて自己と云う場合も多いですね。

でも、それがアートマンの「最終形・終極・合一(ジンテーゼ)」になると思いますよ。
その方が「実用的」だから。


> 受容を無限に進めた存在は神仏だと思う。

そうですね、そのとおりだと思います。

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