開祖は1度だけアートマンを話した、と云う根拠は 92 年 11 月 16 日サヘートでの説法。アレフ教学システムVの 334ペーヂにあります。 例えばそれは、この地球よりもずっと大きく、宇宙よりもずっと大きく、すべてを包含したもの、これがニルヴァーナと呼ばれるものです。そしてこれを別の言い方をするならば真我と呼んでいます。 で、この真我は、先程述べた識別の働きによって、いろいろなとらわれを形成しているのです。 だから、言い方を換えるならば、真我とエゴというものは同じであるということもできるんだね、これは。 アートマンの説明が少ないために旧団体の悟りが封印されたとすれば、彼はサマディなどで体験はしたかもだが理解はしてない気がする。 ぼく自身はアートマンを物質や精神を夢みる主体のように捉え、文字どおり主体と呼んだりもします。とはいえあらゆる言葉が非我なのでどう名付けても不正確になる。 それで不立文字なわけだが、ひとまずアバウトにでも理解するとおそるべき変容が始まるんですね。エゴ(自我)は本来の自分ぢゃなかったことに気づいて、人生がアートマンを中心に回りだす(いわばコペルニクス的)。 エゴを守る必要性が消えるためその分解が進む。和井さんが云われたように悟りの説明は1行で済んでしまう、アートマンを発見後は全自動だし。 非我の受容に関しては次のとおり。精神が物質の対極であるようにアートマンは非我の対極だと分かる、ゆえに経典や導きとして非我に学ぶ。アートマン → 非我の順に学ぶ限りは副作用が弱いはずです。 ちなみに心理学その他、自分の非我やアートマンをひっくるめて自己と云う場合も多いですね。 受容を無限に進めた存在は神仏だと思う |