和井 恵さんのメッセージ(#13959)への返事 > 名色(nAma-rUpa)という言葉があるよね。 > それは「人によって名づけられたもの」と理解すればいい。 > つまり、認識できる(した)対象が「名色」であり、 > 認識と切り離されたものは名色ではないのです。 さて、その認識の中身ですわな、問題は。 例えば完全ヌードの写真があったとして、 誰も気付かない状態で放置してあったとしたら、 万人の意識の中においては、その写真は存在しないも同然。 しかし、誰かがその存在に気付き、何であるかを確かめたと。 まさか写真が存在する時代の人が、 それを見て写真だとわからないはずはないだろうから、 とりあえず「これは写真である」と認識しますよね。 で、被写体を見て、「これは○歳くらいの女性の衣服を着けない状態である」 などと考える人はほとんどいないだろうと。 たいていの人は、「お、ヘアヌード!」とか思うでしょう。 ここに最終解脱者がいたとしても(笑)、「ヌードだ」とは認識するはずです。 その認識の次に、「なんだ、ヌードか。つまんねえ。」 といって放り投げていってしまう人もいれば、 「ラッキー!今晩のおかずにしよう。」と持って帰る人もいるだろうと。 しかし、「これは写真である」、「ヘアヌードである」というところまでは、 おそらく「名色」の範囲内だろうと思うのだけれど、 「写真」の方はともかく、「ヘアヌードである」と認識したということは、 その意味合い、つまり、自分は興味ないものであるにせよ、 興味のある他人はそれをどう思い、どう使うか、 という知識くらいはあるはずだから、 「○歳くらいの女性の衣服を着ていない写真」と同等ではいられないはず。 こういう場合には、苦に寄り添っている他人についての知識や、 苦の中にあった頃の自分の感情に関する知識によって、 自動的に色、識、名色、というプロセスを辿った上、 名色の中には、それが人間に対してどう影響する性質のものなのか、 というイメージ、偏見といったものも含まれてしまいます。 結局現代に生きている、ということは それ以上に「愛」とかに進展しない状態を作り出す必要があるでしょう? > これは、苦しみである(と、リアルに直感として解ってしまう)。 > これに近づくこと、交わること、関係を結ぶことは、苦の生起に繋がる。 > 私はそれらを厭い、近づくことなく遠く離れよう。それは苦因の滅尽である。 > すると、それを実戦するための道が、自ずと明らかになって見えてくる。 こういうシンプルな人間になれれば嬉しいんですがね・・・。(苦笑) たいていの人は「わかっちゃいるけどやめられない・・」という、 釈迦に言わせりゃ「まだわかってねえ」状態なわけですな。 人間というのは、誰が見てもわかるような苦の部分は排除して、 楽しめる部分はいつまでも意地汚く楽しもう、という傾向がありますから、 一度懲りてみたところで、次こそはなんとか美味しいところだけ、 などという愚かなことを考えてしまうようです。 まあ十二縁起は一日一段階、などという速度で起こることではなく、 とてもじゃないけど人間には追いつけない速度で起こるので、 普通の人間にはその進行を止めようもないんです。 どうしたらストップをかけられる人になれるか、ですね。結局は。 > (途中だけど、続きはまた後でね。) 明日の夜からバス乗って東京へ行きますね。 15日に横浜でモーツァルトガラコンサートを指揮するので、 そのお稽古が目白押し。 そんなわけで携帯からの閲覧になりますから、 あまり長文のカキコは出来ないかと。 しかし、ちゃんと読むことは出来るので、 続き楽しみにしてます。 |