![]() 聖者ぼんちリンポチェさんのメッセージ(#13957)への返事 > まず、話の流れの都合上(というだけでもなかろうけど)、 > 「外因」と「外因の働き」とは区別して考える必要があるでしょうな。 > まあ、「外因の働き」がなければ、その事物は「外因」と名乗る資格もないですが。 名色(nAma-rUpa)という言葉があるよね。 それは「人によって名づけられたもの」と理解すればいい。 つまり、認識できる(した)対象が「名色」であり、 認識と切り離されたものは名色ではないのです。 初期仏教における素朴な実在論として、色とは物質の事です。 色(rUpa)とは「こわれるもの(こと)」と言う意味です。 ですから、色といった場合、認識の有無に関わらず物質を示します。 わざわざ名色というのは、苦しみと物質とのかかわりの中で、 「認識(識別作用)」を除いては、その仕組みが成立しないからです。 これで、十二縁起で、識の次に名色が現れてくるのが解るでしょ。 > 例えばあべるさんの出してきた喩え、 > 女性の写真やDVDがあっても、それだけでは勃起しませんから。 > 見ても何とも思わず、潜在意識にも溜まらない、 > そういう人に対してはその写真やDVDは外因でさえありません。 > 因というからには果が必要です。 喩えばここに、水の入ったコップが置いてある。 「無明」の状態は、このコップがグラグラして右に左に大きく揺れ、 中の水が大きく波打っている状態。 何故揺れているかというと、「自立」していないから。 何かに「依存しようと」しているから、その相手が変化することによって、 自分もモロにその影響を受けて、揺れ動いてしまう。 ロープで縛られて、あちこちから引っ張り回されている状態。 で、不還に到達すると、このロープが全て切れてしまうから、 コップそのものは安定(自立)する。 ただ、風(外からの刺激)が強いと、多少の「さざ波」が一時的に生まれる。 しかし、コップそのものは安定しているので、その刺激から離れさえすれば、 すぐにまた波一つ無い水面に戻ることが出来る。 > そこでどうやって不還に達するか、の方法論になるわけですね。 釈迦が最初に五人の比丘たちに行ったのは、 オウムで言うところの「ジュニアーナ・ヨーガの技法」を使って、 相手の心の中に巣食う「誤謬」を、一つ一つ壊していったのだと思います。 一種の「カウンセリング」のようなものかな… これによって、「智慧の解脱」が起き、「無明」が消滅します。 その時に、単なる観念や概念などではなく、まさにありありと、 リアルな実感を伴った、確固たる認識(確信)が生まれるのです。 これは、苦しみである(と、リアルに直感として解ってしまう)。 これに近づくこと、交わること、関係を結ぶことは、苦の生起に繋がる。 私はそれらを厭い、近づくことなく遠く離れよう。それは苦因の滅尽である。 すると、それを実戦するための道が、自ずと明らかになって見えてくる。 で、この状態ではまだ、外からの刺激には、少し反応してしまうのです。 自分の心の中に、慢・じょうきょ・無色貪・色貪などがまだ少し残留しているから。 慧解脱をした後に、慢とじょうきょが現れます。 下手をすると、これらに振り回される危険がある。 この時に、これらの「結」を解いていく浄化の瞑想が「四禅定」なのです。 心解脱は、知見(慧解脱)のさらに先。 原始仏教では、知見を得て、おごるな、という(1)。 心解脱は、もっと先である。 (注)(1)「南伝大蔵経」9巻、346、357、361頁。 詳しいことは、別の機会にやるけど、「四禅定」を理解する最大のポイントは、 何故最初に「うじん(熟考)」と「うし(吟味)」が要素として来ているのか、ということ。 普通に考えたら、変だよね、これは。 「瞑想」するのに「あれこれと考える状態」が最初に来て、それが初禅定だなんて… そして、その思索する状態に、喜と楽が伴っているわけで。 さーて、この状態とは、いったいどのような状態を指すのでしょうか? (途中だけど、続きはまた後でね。) |