元芝さんのメッセージ(#12836)への返事 顕教が密教を見て当然のごとく理解しうるという見解は、密教は理解できないがゆえに 秘密にしなければならないというそもそもの意味合い自体を否定する見解です。 まともな見解とは言えない。元芝さんこじ付けがひどいですよ。 では、核心に迫る質問 武術だろうが魔術だろうが何でも自分と向き合えた元芝さんが、なぜオウムの修行で 自分自身に向き合えなかったのですか? 私は向き合っている感覚がありますが。 > ヨーガも仏教も全チベット仏教も、全密教も、顕教も、仙道も、果ては西洋魔術(ゴールデンドーン系からその亜種系統に至るまで)、ブードゥ教の導師の修行メソッド、古キリスト教系の修行メソッド、アフリカ系呪術の修行メソッドにまで手を伸ばし、中国武術(特に八極拳と八卦賞掌)ロシア武術(システマ)日本古武術(琉球空手、元々俺はそこの畑出身です。剛揉流の直系弟子の末席に座らせて貰っております。後は合気道、古流柔術)最後にヨーガを選択し(選択した理由は簡単。シンプルイズベストだという結果に辿り着いただけです)検討した結果辿り着いた答えは、 > > 「瞑想も武術も、およそ修行と呼べるものは自己探求が全て。己自身を知れ。そこに尽きる。それ以外は付けたしでしかない。或いは己自身を知り尽くした上での結果生じる副産物でしかない」ということです」 > > 即ち、ヨーガだろうと他の系統の修行だろうと「己自身を知れ」を黙々をやるものであるならば其れは「得られるべき境地に至れるメソッドを持つ修行体系」であると思います。 > > が、極端あーんど驚嘆失笑のオウム流は「グルイズム」に捕まっているメソッドなので自己探求が無い。絶無。 > 何故なら「グルを求めればいい。自分は間違っていてグルだけが正しいんだ」という大前提の中から始められる修行体系なので「グル」である麻原のおっさんが辿り着いた境地には到達するかもしれないけど、瞑想修行本来の「自己探求の果てに辿り着く境地」には行けない。 > そもそも、そこを目指していないから。 |