| 画像掲示板で出た、「ヴァジラヤーナサッチャ」で美味しんぼが 「グルメのデータ」の一例として挙げられていた、という話、 これについて考察してみたいと思います。 まあ、あの教団の通例から推し量るに、おそらく「餓鬼」のデータ・カルマに 直結している情報として扱ったのでしょう。 しかし、それって本当にそうなるのか、正しいのか、 そこんとこを考えてみます。
結論から言ってしまうと、「あれ読んで餓鬼に転生する奴もいることはいるだろう」。 つまりね、そもそも餓鬼の方向性を持っている人が、 その方向性を増大させることに使ってしまった場合、餓鬼転生はあるだろうと。 では、餓鬼の方向性、即ち、餓鬼のカルマの本質は何なのか、と。 それは「貪り」であり、今風に言うなら「独占欲」ともいえると。 「他の奴には食わせたくない、俺一人で味わいたい」という心の働きですな。 これは、尊師の説法にあることですから、オウムの諸氏は忘れてはなりません。 それを抜きにして「食欲=餓鬼」みたいに考えると、 他からの養分摂取を必要とする生命体はみんな餓鬼に転生することになりますから、 「食欲=餓鬼」ではあまりに短絡的、非論理的というものでしょう。
その上で、あの「美味しんぼ」に書かれてあることは何なのか、 そこを検証する必要があります。 まだ全部は読んでいませんが、相当たくさん読んだ経験から言えることは、 「美食」の追求ではあっても、「美食の独占」を煽るものではなく、 むしろ「美食を普及させ、住み良いこの世でありましょう。」というのが、 この作品から読み取れる作者の意図です。 この場合の「美食」とは、もちろん市場価格の多寡で決まるわけではありません。 「よくぞ日本人に生まれけり」と言えるような素朴な食事も含めてのこと。 従って、美食の追求が必ずしも「経済独占」を意味するのではない、 ということはこの作品の随所に登場する話です。 もしそういう「美食」がいけないというのだったら、 禅宗の料理である「普茶料理」や「精進料理」など全部アウトです。 麩を肉に似せて料理するなんてのは、「美食」がアウトなら宗教的にアウトなのです。 そうでしょう。ガチガチの精神論的な見方をするならば、 肉だと思い込んで食べたい、ということさえ許し難い惰弱精神なのですから。
「美味しんぼ」は、ちゃんと読めばあちこちに重要なメッセージがあります。 他を捕食しなければ生きられない人間の弱さ、業。 食の根本とは何か、という問いかけ。 独占的な経済至上主義へのアンチテーゼ。 これらのいったいどこが、「貪り」であり、「餓鬼」のデータなのか、 オウム信者の皆さんにはよく考えて頂きたいところです。
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