![]() 神風代理人さんのメッセージ(#29302)への返事 > 和井さんが、アベル板で、仏教講義を再開されることを要望します。 大乗仏教や日本の仏教程度までならば、それでも良いのかも知れませんが、 これが密教までとなると、そういうわけにもいきません。 最近の「イン仏板」に、大黒天さんという方が書いておられましたが、 密教の「真の教え」は、一子相伝のように、ごく僅かの弟子達にしか伝えられていないのです。 チベット仏教などでも、世に公開されている教えのほとんどは「表向きの(仮の)教え」なのだそうです。 その文章を読んだときに、ああ、成る程ね、と思ってしまいました。 最近、龍樹菩薩の「中論」を読むことにより、真如の実相を大体把握できるようになりました。 そしてその時に、密教で言うところの「ヴァジュラ地獄」が何なのかということも観えて来てしまったのです。 このようなことは、あまり多くの人に語るべきものではありません。 真摯に法を求め、思索し、説き明かそうとする人にこそ伝えるべきものなのです。 (そしてまた、善にも悪にも強い者〈強靱な心を持つ者〉でなければなりません) そして、そのようなレスを私に送ってくれたのは、神風代理人さんだけなのではありませんか? 誰かに打たれなければ、決して鐘が鳴り響くことはありません。 これが「縁起(対機)の理」なのです。 > ヤツガレの住所、携帯電話のメールアドレスは、アベルさんが知っています。 > ミクシメールでお知らせすることも可能です。 いずれご連絡するとしても、早くても年明けでしょうから、少し気長にお待ち頂ければと思います。 色々と調べる必要があることも多々出てきてしまっていますので… ※ちなみに、石飛先生はとても面白い方で、ちょっと無断転載になりますが、 先生のHPにある5年前に書かれたエッセーを、ここで紹介しておきたいと思います。 ●あやしいって?あやしくないあやしくない! インドの論理学の学派は、その名も名高いニヤーヤ学派っちゅう学派なのです! どこが「名高い」って?このサイト以外、そんな名前聞いたことないぞ。 いいの、業界内部では「名高い」のだ。なぜなら、とっても論理学な!学派だからです。 (何か同語反復ね、ま、いいか) それはね、こんな具合よっ! 他の追随を許さぬ論理学度ナンバーワン、泣く子も黙る論理学、混じりっけなしの論理学、 100%純粋の論理学、いやいやそんなもんじゃ、春期に限り20%増量!120%の論理学なのだ、 なの…なの…だ……あれ? 120%論理学なのに、何でこんなもんが入ってるのよ。 ヨーガによる直接知覚だってよ。『ニヤーヤ・スートラ』1.1.3に対する注釈『ニヤーヤ・バーシャ』の中です。 ユンジャーナ※と呼ばれるヨーガ行者には、ヨーガの三昧から生ずる直接知がある。 「自己(アートマン)おいて、自己(アートマン)と思考器官の特殊な接触があるから、 自己(アートマン)は直接知覚される」と(ヴァイシェーシカ=スートラに説かれる通りである。) ※ヨーガ行者には二種あってユクタとユンジャーナだとある。 前者は常時三昧状態であるが、後者は瞑想に入っているときだけ三昧状態だと本にあるけど、裏とってないっす。 だけど、一応、信じとく。ユクタは過去分詞、ユンジャーナは現在分詞だから、 なるほど、文法的にも内容とあってるみたいだ。 じつは、この文の前に「自己(アートマン)は推論で知られる」っていうのが書いてあります。 だから、「直接知覚できる」って言わなくてもいいのじゃ…。 いや、そうじゃなくて、直接知覚によって推論の知を検証して確かめるつもりなのかな? でもねぇ、かえって一気にあやしくなる感じだわ。 ふつうの人は、こういうコトできないんだから、つまり、「自己を生(なま)で見る」なんてことは。 例えば、自分の顔を生(なま)で自分自身で見る!って言ってるのと同じようなもんだわよ。 ふつうはありえねぇ!です。 常識人である管理人としては、この点について、 インド論理学の汚点のような気がしてたんですわよ、ずうぅぅ〜っと。 「論理」というふつうの人が全面的に納得してくれそうな、こんなありがたいもんの中に、 「ヨーガ行者の知覚」みたいな異常な要素を入れておくのはまずい!おおいにまずい!ってね。 ふつうの人が見てわかるようなもんなじゃないと信用されねぇっすよ。 だけどね、これちがうわ、管理人の大まちがいです。最近、わかった。 インド人がね、論理学にこれほどすぐれているのはね、ヨーガによってものを見ていたからだわ。 ヨーガが論理学を生んだといっても言いすぎでないかもしれない。ヨーガは、ぜんぜんあやしくないのよ。 まだ、みんな、インドの論理学がどのくらい論理的にすぐれているかわからないと思うけど、 3世紀にはすでに現代論理学と同じものか、それより、上のものが説かれていたんだよ。 なぜ、それがわたしたち現代人に知られてないかって?概説書にそう書かれてないかって? それはね、言いたくないけど正直言って、わたしたちインド論理学研究者が愚かにも愚かだったからです。 ヨーガなんかバカにして、まじめにヨーガのこと考えなかったからです。 インド人がホントはどんなすごいこと言ってるのか、ぜんぜんわかってあげようとしなかったんです。 それじゃ、何で、今それがわかったんだ? 管理人、ヨーガやってないじゃんか。 いや、そうなんだけどさ、ちゃんとヨーガはやってないんだけど、 最近毎日論文にはまってたり、あれこれベンキョしたりするじゃん。 そうしたら、ヨーガの効果と似たようなもんが得られて「何となくヨーギン(ヨーガ行者)」なのよ。 それについては、ちょっと別のエピソードもあるです。 いや、ちょっと、昔の話でしかもあやしい話なんだけど、その昔修士論文ってのを書いてたこともあったのよ そのとき、一回あったのよ。えせヨーギン体験が。 毎日論文書いてました。ある夜、よくわからないけど、 自分が自分でなくなって頭が真っ白になったような感じで、 辛いとも苦しいとも思わずひたすらペンを走らせて「何も考えずに」論文を書いてた。 はっと我に返ったら原稿用紙の山ができてて論文が相当量出来上がってた。 ということは、「考えてないのに考えてた」みたいです。 こりゃ、おいしい話だと思って、こんなことしょっちゅうあったら良いな、楽だし(動機不純じゃ)、 って思ったけど、二度となかったすよ。 まぁね、今回も、若干これっぽい感じです。 でも、今回はちがう能力。本の作者が言ってることが、言いたいことが全部わかる。 他心通(たしんつう:他人の心が読める)。これに目覚めたらしい。 でも、これ本の中身に限定されるし、いつでもってわけでもないんだけど。 何回も話して繰り返しになるけど、インドの学派はそれぞれ自分たちの学説のよりどころとして 『スートラ』という根本教典をもっているの。 ものすごく簡潔な言葉で書かれていて、注釈がないとさっぱりわからん、という代物。 先生についてならって、暗記して、注釈してもらって身につけていくのだけど、ね。 でもね、これ、ある程度ならったら、自分で精神集中して勉強していけば(勉強三昧っつう三昧か)、 すればするほど、もっともっとよく深くずぶずぶにわかるということがわかった。 スートラ作者の考えにそのまま至る、他心通なのかも。 そして、なぜ、スートラという短い文句で書かれているのかもわかった。 それで十分だからだ。多すぎず少なすぎない文句なのだ。 そして、その短いスートラで ま、まさか、ここまでの内容含んでたん!?\☆/ ということがわかる。 ヨーガや瞑想は、神秘主義の専売特許ではないです。 神秘的直観を得て、真理は「不立文字」って、こういうヨーガもあるかもしれないけど、 如実知見(あるがままに知る真実の知識)を得て、 真理は「立文字」(?)って、こういうヨーガもあるようだぞ、みんな! それでさ、ヨーガによって真実をつかむ、にしても、それは間接的な手段でしょ。 直接的には何によって真実をつかむかわかる? 龍樹はね、「知恵」って言ったんだけど… 『ニヤーヤ・スートラ』じゃね、龍樹に対抗する意味もあって「知恵」というのはどうしても承認できなかった。 そこで、その代わりに、こう言ったんだ。 「ヨーガ行者の直接知覚」ってね。 龍樹が「知恵」と呼んだものと、ニヤーヤ学派が「ヨーガ行者の直接知覚」と呼んだものは、 たぶん同じものだよ。 ヨーガを論理学の中に入れることは、あやしくない論理学をあやしいものにするんじゃなくて、 あやしい学問をあやしくないものにするための手段だったんだ。 西洋じゃ、この「ヨーガ行者の直接知覚」って、何て言われているかわかるかな? たぶん、「天才の閃き」とか何とか、言うのとおんなじなんだろうね。 ──どうでしょうか? このエッセイを読んだだけでも、石飛先生が「並みの論理学者」でないことは解りますよね。 |