教祖の卵さんのメッセージ(#25117)への返事 > 元芝さんのメッセージ(#25085)への返事 > > ラクシュミー・デーヴィーの伝記より > > あるとき、部屋の半円状のベランダに立っていた師は100年後また生まれてくる > とおっしゃった。 > しかし、ホーリーマザーは、また生まれてきたくないと言った。 > ラクシュミーもその考えには激しく反対した。 > もう二度と生まれてきたくない―たとえ煙草の葉のように切り刻まれようとも! > と言ったのだ。すると師は笑って言った。 > 「もし私がここに来るなら、お前たちはどこにとどまるつもりなんだ? > お前たちの心は私に恋いこがれるだろう。私たちの根はカルミ草のように > 結びついているのだ―ひとつの茎をひっぱれば、茂みの全体が一緒についてくる」 > > これを読むと、ラクシュミー・デーヴィーは、 > ラーマクリシュナが地球に再び生まれ変わること、 > そして、自分が生まれ変わることを望んでいない、 > ということが分ります。 > つまり、ラクシュミーの希望的な意思が混ざっているとは考えられません。 > いいえ。 俺が言ってるのはラクシュミーのそういう「感情」の話ではなく、残された者の 「教団運営者」としての「打算」を言っているのです。 > 素直にこの文を読むと、ラーマクリシュナが100年後に、 > 弟子たちと共に、地球に転生するということになります。 > それが、あり得ることだと思いますか? > 有り得ないと思います。 この言葉は支配を望まないラーマクリシュナらしからぬ発言です。 ラーマほど他人の自由に重きをおく聖者はいません。 なのでこれは後に残される「教団運営者」としての人物たちの思惑の入った 「物語」 であると俺は思います。 そして、一言。 真に悟りの道を歩く者ならば、弟子は師を追いかけたりはしません。 師の神の体現という表現の場を、機会を奪わないために。 師はあらゆるとこにいるのだから一人になど執着しません。 師も特別なことがない限り弟子を追いかけません。 弟子の神の体現の、その無限の多様性を、機会を奪わないために。 ラーマクリシュナは弟子たちの神の体現という機会を、その無限の多様性を自分一人の教えで限定させるような真似はなさらないはずです。 水は流れていくからこそ清い。 そのことに気がつかないほど愚かな方では断じてない。 逆に、 ラーマとその弟子たちの転生がどこどこの誰々だと固執するのは彼等に対する冒涜侮辱であると思います。 彼等は無限の多様性とそのもっとも崇高な形の最も壮大なバージョンで転生しているはずだから。 これ以上この結論をある形に集約させようという意図が汲み取れる愚昧な議論を俺は望みません。 なので敢えて断定します。 以後の議論はしばらく俺がPC環境がストップすることも含めて無意味・かつ無価値と判断します。 ラーマクリシュナ教団の関係者のオウム教団への転生は 在り得ません。 以上。 敢えて反論は受けません。 もしそれでもラーマクリシュナ教団の関係者はオウム教団へ転生したと仰りたいのなら ラーマクリシュナ教団関係者も結局はその程度の器でしかない人たちの群れだったということです。 その時はラーマクリシュナ地に落ちて殺人鬼麻原に成り果てぬってことだけです。 |