> 秋葉原などでの無差別殺人事件で、犯人が次々と一般人を殺害している現場において犯人を警察官が射殺するのはやむをえない行為である、という内容である。 > > この例え話を聞いて、これを問題視する人はおそらく少ないだろうと思う。 > > しかしながら、この論理こそが危険とされた「ポア」の考え方そのものなのである。 > > まぁ、違いがあるとするなら、ポアはこれ以上の悪業を積ませないよう犯人のためにする「慈悲殺人」であるのに対し、この例えではこれ以上の被害者を生み出さないための「利他殺人」と言えるのかもしれない。 > > いずれにせよ、オウム以来、封印・破棄された「殺人を肯定する教義」が復活した訳だ。 殺人そのものは肯定されるべきことでも、 否定されるべきことでもない、と私は思いますね。 第一、一般の人間が、あるいは裁判関係者や捜査関係者が、 「オウムは慈悲でポアをやった」などと考えていると思いますか? 妄想的な防衛意識でやった、というのがまだ好意的な見方、 大抵は、自己中心的な意図でやった、としか思ってないですよ。 正直、オウム事件を慈悲殺人や利他殺人と同列に並べるには問題がある。 その意味では、上祐さんは本来の意味での慈悲殺人、利他殺人を、 まったく別次元の話として、(然るべく)扱ったように思います。 もちろんその結論の是非とは別に、です。 もし、「実はオウムのやったことは慈悲殺人だったんだ」 という結論を思い描いて説法したことなら、 それこそ「ポアの復活」なんでしょうけど、 そういうのとは少し違うような気がします。 |