さくらさんのメッセージ(#23495)への返事 > 大昔の朝生で、みんなで修行しているビデオ流して > 私たちは神の前にぬかづくのではなく自分で修行するのだと 1991年の朝生テレビは資料価値が高いと思います。欲しい方がおられたらDVD化したものを 無償贈呈しますからご連絡ください。 > みんながヨガを始めた最初のときは、 > 「絶対者に帰依するんだ」な〜んて意識はなかったのではないでしょうか? オウムの内容が時代と共に変遷していった、、、小乗的→大乗→(青沼アニメで)選挙後に これからは大乗では駄目だ→殺人 というのは広く知られた(流布された)ことですが、初期の神仙の会の頃の雰囲気をご存知 の方に是非とも教えていただきたいところです。 ・お釈迦様でも四アサンキャ十万カルパかかった、、、それなのに自力修行だけで最終地点 にまで到達できると思っておられたのか ・そもそも当時意識されていた最終地点とは何か @阿羅漢か Aマハーニルヴァーナか(初期はマハーヤーナといってたか? 概念は同じか?) B最終解脱か最終完全解脱か、お釈迦様と同じステージを目指したのか ・グルは私達を解脱させてくれるただ一つの魂、との認識はあったか 解脱といっても、それこそラージャヨーガを最低レベルと位置づける例の段階もあるわけ ですがwww > > オウムの人たちは、<strong>「グル麻原を絶対者と信じる修行者」</strong> であられたと。 > > まあ、そういう団体であったことまでは否定しませんが、 > とにかく、修行者としての自負はありました。 「修行者」、「信じる人」を二律背反的にデジタル二元論で全然別なものとして百ゼロで 区別するのではなく、両方の要素をどのような割合で有しているかということでしょう。 キリスト者は修行の部分がゼロに近い。後期オウムは、、、修行も他の団体と比べると 圧倒的に凄い修行だったことは間違いないですが、グルへの絶対帰依もまた強烈に必要で あった、、、こういうことだと思いますね。 |