影晃さんのメッセージ(#23141)への返事 >> いえ、思い込みではなく、素直にそう感じています。 > 普段、通勤時に電車に乗った際、何気なく立っているサラリーマンが、物凄い大聖者に見えることもよくあります。 > 逆に、「こいつは魔境だな」とか「最悪な奴だ」といった印象を受けることは、滅多にありません。 > そして、それはあくまでも個人的な印象であり、絶対的事実ではないこともよく分かっています。 > 同時に、他の方が抱く印象も絶対的事実ではなく、その人の精神状態の投影であると分かっています。 > > アストラルに入って固定されていない状態だと分かりやすいですよね。 > 精神状態が即、場の世界にリンクして変化するからです。 > しかし、それは実質的には現象界も同様でしょう。 > 和井さんが片付けてらっしゃいますが一言だけ。 あなたがどう内的宇宙で認識しようとも世界はそのもののままであり続けます。 それと、 全ての人が聖者に思える? とても気持ちの悪い世界を妄想してらっしゃいますね。 確かに全ての人には仏性が存在している、あるいはハイヤーセルフ、あるいは真我、あるいは絶対者ブラフマン、あるいは神が存在しているということに異議はありません。 ですが、全ての人が聖者ならこの世は存在する意味を失います。 この世は泥のような世界だからこそ存在しています。 泥棒も金持ちも善人も悪人も聖者も邪悪な人も殺人者もいろんな人がいて初めて成り立っている世界です。 悪があるからこそ聖がある。 聖が聖であるために悪が跳梁跋扈するのがこの世界です。 もちろん全ての存在が本質的には神聖なのは異議ありませんが、全ての存在は自分の神聖を忘れ(忘れたふりをして)自分の役に没頭しています。 殺人者は殺人者の役を金持ちもは金持ちの役を泥棒は泥棒の役を善人は悪人赤ん坊は大人は・・・・全ての存在は。 この世が混沌としているから「聖」を探す意味があります。 智慧が必要になります(あるいはその智慧があることに気づくことが) 無条件に全てを受け入れるのも一つの道かもしれませんが、それは決して思考の放棄ではない筈。 無条件に受け入れてもいいほどのものなのかを検討することを惜しむのは違うと思います。 聖者だけならこの世の意味は崩壊してしまう。 きれいなだけの世界ならきれいの意味は無くなってしまう。 真実だけの世界なら真実は意味を失ってしまう。 > ですから、和井さんの世界においては魔境という状態は存在しますが、 > 私の世界においては魔境という状態は(ほとんど)存在しません。 > もちろん、やろうと思えば、存在させることができます。 > つまり、この世界は、心次第で無制限に操作できると思うのです。 あるがままというのは「聖」は「聖」「邪」は「邪」と観ることであって自分の都合のいい世界を観じること(妄想)することではありません。 > > 多くの方々が共有するものが“事実”と言われているに過ぎないのではないでしょうか。 幻は幻ですが、多くの人が「これが真実。我々の信じることこそが真実」と信念を持つ限りこれが「真実」と体験することでしょう。 でも「真実」を別の「妄想」で塗り替えて悦に浸ることが「真実」を「越える」ことではないと思います。 「超える」とは「幻想は幻想として見抜きかつその幻想を利用する」ことだと思います。 |