影晃さんのメッセージ(#23121)への返事 > 確かに。 > ただ、精神世界に入るまでの人生で培った唯物的な世界観などが、判断基準となる価値観の土台のほぼ全てを占めている状態で、疑いを中心とした検証を重ねても、結果は見えているような気もします。 > > > 承知しております。 > それは、律法学者さんらが、なかなか信じないために為したと考えられます。 > キリストの主張する理想はあくまでも、無条件に信じられることかもしれません。 > > >> 裁判(初期)での開祖の証言をストレートに受け取ると、サリン事件に関しては、麻原開祖が積極的に関わったとは考えにくいと感じます。 > > 事件のみをピックアップして捉えると、それが悪業を生んでいると私も思いますが、「誰が起こしたのか」という点において、決定的な物的証拠がない状況で確信に至るというのは、元芝さんの立場に矛盾するような気がします…。 > > それはあくまでも、事件前の皆さんではないでしょうか。 > > 現状で、サンデー大梵天のことを皆さんがあまり信じていないことからも明らかだと感じます。 > > 現状では、信じることの方が難しく、そしてそのことに価値があるように私は思います。 > > しかし、オウム当時においては、疑いの視点が足りていなかったことは私も思います。 > > ですから、将来仮にサンデー大梵天が大々的に信頼され、必要以上に担ぎ上げられ、周囲が無思考状態になった時、私はサンデー大梵天を批判し、疑う可能性があります(笑)。 時間が無いので軽く。 > 確かに。 > ただ、精神世界に入るまでの人生で培った唯物的な世界観などが、判断基準となる価値観の土台のほぼ全てを占めている状態で、疑いを中心とした検証を重ねても、結果は見えているような気もします。 それはどうでしょう? 対になる唯物的な世界観があったればこそ精神世界の検証は可能なのだと思いますが? 精神世界の価値基準のみで精神世界を語ればそれこそ落とし穴だと思います。 両方は両方を生かしています。 どちらも神の意思。 では後ほど |