PC壊れたので友達のPC借りながら@元芝さんのメッセージ(#23112)への返事 > 信じるためにこそ疑う必要があるのです。 > > 疑うことこそは足元を確かめ着実に脚を前に進めるために必要なことだと思います。 > > そこに地面が確かにあると信じ込むから落とし穴に落ちるのです。 なるほど!そういう趣旨でしたか。ちょっと意外でした。地に足をつけた地元素優位タイプの方…ですか??自分は火と風のフワフワ系です(笑)。 信じることは、通過点だと感じています。 キリストはよく、「○○してみせよ、そしたら救世主だと信じてやろう」といったことを言われていました。それに対して、「○○するのを見ることなく信じられる者は、幸いだ」的なことを言い返したと記憶しています。つまり、飛躍しますが、 麻原開祖の為したことが仮に間違いで大悪行だったとしても、私は麻原開祖の全てをありのままに受け入れることができるし、 警察や公安、マスコミや近隣住民の方々が為したことが仮に間違いで大悪行だったとしても、私は皆さんの全てをありのままに受け入れることができる。 こういった一つの状態に行き着く上で、全てを受け入れられる許容量を持てるよう心を広げるプロセスが、私にとっての信仰でしたね。 疑わしい対象、受け入れられない対象、そういったものを信じ、受け入れることで、心が広がっていくのがわかります。自由で、安楽です。難しいことですが。 > むしろ「自分は神の一部。そしてみんなそう」ということをつまり「全員が神の一部(Member)であること」を「思い出す(reMember)」ことが必要なのです。 > > ここのところが出来ているかいないかで結果は違ってきます。 同意します。そこへ行き着くプロセスとして、信仰は一つの手段として有効だと私は思っています。 |