和井 恵さんのメッセージ(#22519)への返事 > 「蒔かぬ種は生えない」というのは、本来は意味がまったく違いますよね。 > > これを混同している人が多いような気がします。 > > 仏教では、本来「業(カルマ)」の働きを、四つの流れで捉えていました。 > 業因・業縁・業果・業報、略して「因・縁・果・報」と呼ばれていますけど。 > > これは、「誰かを殴ったら、後で殴り返される」というような考え方ではありません。 > > アベルさんが例に挙げているような、種(因)に肥や水などを与えると(縁)、 > それが育って果実を実らせ(果)、そこ中に入っている種が、又新たな因を造り出す(報)。 > > しかし、ここに「異塾果」という捉え方があるんですね。 > > 譬えば、種の例を挙げるならば、様々な「縁」を与えることによって、 > 「種なしブドウ(本来のモノとは異なる果)」や「新しい品種」も造り出せます。 > また、種を種として植える場合もあれば、食料として食べてしまう場合もありますよね。 > > > ところが、「為したことしか返らない」、と単純に捉えてしまうと、色々な疑問が出てきます。 > それでは、植物に水を与えると、いつか植物から水を与えられるのでしょうか? > あるいは、自分自身に為した行為は、どのように自分に返ってくるのでしょうか? > > また、誰かを殴る人は、「殴られるカルマを持つ人」を選んで殴っていることになります。 > つまり、相手のカルマを、無意識のうちにでも「認知」して選別していなければなりません。 > そうではなくて、何か特別な力が働いて、そのような行為をさせているのだとしたら、 > それは「宿命論(決定論)」になってしまって、本人の努力では変更不可能になり、 > 私たちが修行(自己努力)をする意味が無くなってしまうのです。 > > 殴られた人のカルマは、殴った相手に「転移」するだけで消滅することはなく、 > 今まで過去に自分が為したこと「しか」返ってこないのならば、 > 今まで以上の自分には、成りようが無くなってしまうことになります。 > > いやいや、その状態を救ってくれるのが「グルの神秘力」なのだ、と言うのかも知れません。 > その人に無い「因」を移植して、袋小路から抜け出させてくれるのだ、と… > > しかし、それを受けるには、過去に「自分がそれを為していなければ」受けられないはずなのです。 > 自業自得(為したことしか返らない)という原則から言うならば… > > そして、「グルの神秘力」というものを認めてしまった場合、その副作用として、 > そのグルには、さらにそのまたグルがいて…と遡ることになってしまって、 > 最後には、「最初から解脱をしていて、決して穢れることのない、特別の存在」が、 > 理論的にはどうしても絶対に必要になってしまいます。 > > すると、その人の心の中には「絶対なる聖」と「俗(それ以外の存在)」という、 > 根源的な、根深い「二元化(差別意識)」が起きてしまうことになるのだと思います。 あー 昔からぼんやり考えていたことをはっきり言葉にされてすっきりした〜。 所謂、「為したことのみが返ってくる」的カルマ論は実は無理があるだよねえ |