![]() 아벨(Abel)さんのメッセージ(#22270)への返事 > 脳味噌のCPU使用率をタスクマネージャーで測定して、使用率が0%に近づけるようイメージ > したとwww ミリセカンドくらいなら出来ましたがwww でも耳学問の話によりますと > サマディっていうのは集中でもあるってことならCPUの使用率を0にするのではないのかいな? > いや、パモ師も「尊師の脳波はフラット」と言っておられた通り、脳味噌のCPUは使用しない > 状態で、クライアントコンピュータとアーカシックサーバ(また出たw)の何らかの接続っ > てことなんだろうか?? 少なくとも無用なソフトとか周辺機器はどんどん無効にしていく > 操作が必要ってことは事実なんだろうな、ノートパソコンでも液晶切って、ドライブの電源 > 切って・・・(心頭滅却で温度や痛覚センサーもオフにできるぞw)、そしてCPUの使用率も > 下げたら電力消費(酸素消費)もどんどん下げられると。 > > そっから解脱へどうつながるのか、電脳モデルで自分にはこれから先についてはさっぱり > わからないと。 > > まあ自分なりにある程度理解しやすい方便をいろいろと考えてたわけですが、私にとっては > やはりパソコンの比喩などが理解しやすいと。どっかにそういった上手な比喩ないですかね? 私は、コンピューターにはそれほど詳しくはないので、 適切な比喩はちょっと難しいかも知れませんが、 まぁとりあえずは、次のような比喩が考えられるでしょうね。 あるHPを開いたら、トラップが仕掛けられていて、 次々と新しいウィンドウが開いてしまい、消しても消しても現れて来てしまう。 それに邪魔をされて、肝心の観たいHPを見ることが出来ない。 これが、「雑念に囚われている状態」です。 それらの邪魔が無くて、観たいHPをすぐに見ることが出来る。 これが「集中している状態」なのです。 そして、使用しているプログラミングにバグ(誤作動)が無く、 働きがスムーズで正確、そしてシンプルで使いやすい状態であること。 これが「慧解脱」に近い状態と言えなくもない… そして、心解脱とは、レジストリ(だったかしら?)の中の無効なものや 不要なバックアップなどを消去して、プログラムの立ち上げを瞬時に行える状態、 と、言えなくもないかも知れない(あやふやな表現ですね)。 > クライアントコンピュータとアーカシックサーバ(また出たw)の何らかの接続 という捉え方は、「一元」のモデルとは受け取りにくいですね。 個々の「繋がり(接続)」つまり、相互依存という「二元(相対的な)モデル」を 表現しているように見えますけど… 「空無辺」や「識無辺」などのワンネス状態(境界・ボーダーの消失)に似ていなくも無いですが、 しかし、ワンネス = 一元 では決してありませんからね… (一元という表現そのものに、実は「落とし穴」があるのです) > 山の中で一生かかって中学レベルの方程式の解を「独立発見」した人のような無駄もしたく > ないですしね〜。嗚呼、ロシア人のグルに従って神聖衆レベルをめざしたい!! www それも一つの選択肢なのかも知れませんね。 > > アーガマの中の「沙門果経」には、色々な神通(宿命通など)が描かれていますが、 > > あれは、出家者を対象として語られたモノではありません。 > > いわゆる教団のスポンサーとなりうるような、世俗の王様に語っている内容なのです。 > > つまり、相手が知りたいこと、興味のあることを加味して、味付けして語られています。 > > 要するに、一般の世俗的な人を対象とした「方便の教え」なのです。 > > YASUさんも大好きな経典っすね。我々一般人に対して、サマナ・師という人たちはこんなに > 凄いんだぞ、ってな言い方で書かれたものとか。あ、A式表現になっちゃいましたがw 例えば、アメリカのセレブ達の考える「ステータス」の一つに、 何らかの「ボランティア活動」に参加することが条件としてあるようです。 それと同じように、当時のインドのマハラジャ達は、有力な宗教者を見いだして、 そのスポンサー(後援者)となることが、彼らの一つの「ステータス」だったのです。 ですから、経典に登場する王様は、かなり世俗的な興味・関心を持って、 「出家の功徳」とは何かという質問を、釈迦に対して問いかけているのです。 そこで釈迦は、その期待に添うような味付けをした教え(説明)をしているのです。 本来は、漏尽通のみが、仏教で本当に必要不可欠な「神通力」なのですけどね… (他の五つは、特に仏教でなくても得ることは出来るでしょうから) > ところで > 某カルトで五下分結の一つに愛欲の興奮なんて言ってたのだけがあまりにも強烈な表現なの > でスワジ系としては忘れられないとwww 他の四つは忘れたwww 伝統仏教式な表現、 > 分類とAとは一寸ニュアンスが違うのかも。 オウムの教義では、チァクラと六欲界(ただし五つまで)と五下分結とが、 あたかも、それぞれ一対一で対応しているかのような説明をしています。 しかしこれは、その説明をよく読めば、「こじつけ」に過ぎないことが解るでしょう。 五下分結は、その一つ一つが、それぞれの世界(地獄・動物・低級霊域など)と 直接対応されて説かれているわけではありませんから… 「欲界」とは、「(五妙)欲(に囚われている世)界」の略語なのです。 六根・六処(六つの感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身・意)、 六境(六つの感受する対象、色・声・香・味・触・法)、 六識(六つの認識作用、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、 これらを合わせて「十八界」と言いますが、 つまりこの「十八界」が、「三界(一切)」の別名(別の角度からの説明)なのです。 そして、この中の、五根・五境・五識、が「欲界」を構成しているのです。 (地獄・動物・低級霊域…といった分類は、修行へのモチベーションを高めるのに 使うことは出来ても、修行そのものの役には立ちません。むしろ邪魔になるのです) |