![]() 아벨(AbelAbel)さんのメッセージ(#22255)への返事 > 最後の「意」ってのは非常にグレ〜ではないかって気がするのですが・・・ グレーというか、他の五官と比べて解りにくいでしょうね。 ですから、その働きを明確に知るために「瞑想」訓練をするのです。 瞑想とは本来、それ以上でもそれ以下でもありません。 「何か特別なこと」を体験するためのモノでは無いのです。 少なくとも、釈迦の教えではね。 体験をするのではなくて、体験(感受)をする「要素」を滅してゆくのです。 (ですから、最後に「想受滅」が来るのです) 譬えば、ここに「家(自我)」があって、「窓(五感)」から外を眺めている。 しかし、そこから観える「外界」には真実(苦を滅するモノ)」が無いと知って、 今度はその反対の「内窓(第六感・意)」から、「内庭」の風景を眺めたとしても、 結局は、それらは共に「同じ」観察対象であることに変わりはないのです。 外界(現象世界)にしろ、内界(精神世界)にしろ、それらは全て、 「無常(無自性)」であり、「縁起(相互依存・相対性)」に支配された、 苦しみを創り出す「因・囚われの対象」にしか過ぎないのですから。 前世の記憶というのも同じこと。 それらは単なる「足跡(痕跡)」にしか過ぎません。 五蘊の中の「想・想起されたモノ」にしか過ぎないのです。 ですから、それらに囚われたままでは、解脱・悟りを得ることは難しいと思いますね。 アーガマの中の「沙門果経」には、色々な神通(宿命通など)が描かれていますが、 あれは、出家者を対象として語られたモノではありません。 いわゆる教団のスポンサーとなりうるような、世俗の王様に語っている内容なのです。 つまり、相手が知りたいこと、興味のあることを加味して、味付けして語られています。 要するに、一般の世俗的な人を対象とした「方便の教え」なのです。 しかしそれら五蘊を「我(われ)」あるいは「我がモノ(所有)」と観てしまう… 五上分結は、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明ですが、 「色貪」が、つまり「色界(表象のある意識世界)」への囚われを表し、 「無色貪」が、「無色界(表象のある意識世界)」への囚われを表します。 そしてこれらは、五蘊の中の「想(想起作用・想起されたモノ)」と対応します。 それに対して掉挙は、「行(形成作用・薫習・習気)」と対応し、 慢は、「識(識別作用・分別)」と対応するのです。 それでは、無明は? 無明は、五蘊を「我(われ)」あるいは「我がモノ(所有)」と誤認させる、 根源的な働きを表しているのです。 |