![]() 아벨(Abel)さんのメッセージ(#21964)への返事 > 人間界が上という認識は全然入ってなくって、人間界の方が生活環境が快適、生物学的、 > 統計学的に、不慮の死に至る可能性はうんと少ない(生まれた雛が成鳥に達する確率より > 人間の方が遥かに成人できる確率が高い)、という意識だけ。 そうなんですか? ということは、三悪趣としての動物界とか、 高い世界や低い世界への転生などといった捉え方は無かったと言うことですね? それを聞いて安心しました。 仮にそのような会話をしていたとしても、 それはジョーク(冗談)として遊んでいる、と。 > ランクが高い低いというのは和井さんのお考えかと。 私の考えと言うよりも、 「六欲界」という世界観は、そのようなランク付けのされた世界観ですよね。 高い世界、低い世界という表現がされているはずです。 アベルさんが、そのような世界観に囚われていないのであれば問題はありません。 カルマ理論(因果律)に囚われすぎると、 原因と結果の無限ループに巻き込まれ、そこから抜け出せなくなってしまうのです。 一種の「千日手」を延々と指し続けることになってしまいかねません。 生存しやすい環境、しにくい環境に関しては、 心解脱に近い状態であれば、何時死のうが生きようが関係在りませんから、 在る意味どうでもいいことだと思われます。 人間的な(情的な)視点をそこに投影してしまうと、 色々なモノ(苦しみ)がそこに見えてしまうのでしょうね。 ちなみに、ゾクチェンは、「世界は、あるがままで完全である」と教えています。 > > 私は、某教団に出家をしていたときから、 > > 動物のカルマ、云々や、三悪趣がどうのという話しには、 > > ほとんどまったく興味がありませんでした。 > > 正師にまでなられた方でも教学に関してそういうお考えがあられたと知って、 > ある意味驚きです。 > 某カルトも、マインドコントロールという単純な評価はできないですね。 私は性格上、盲信するのが嫌いだっただけです。 例えば、「六欲界」という世界観が本当に普遍的なものであるならば、 「本」を「Book」と言い換えるというような違いはあったとしても、 その内容的なモノ(構造など)は、国や地域、時代は違えども酷似してくるはずです。 しかし、現実には、各地域、各時代で、それぞれ異なる世界観が登場しています。 そして、例えばインドの世界観においても、「天界」一つを採っても 最初は単純な一つの世界として語られているのに、 それが、僅か数百年経つか経たないかの間に、6種類の階層的な世界に変化する… 全ては心の顕れ、一念三千、だとすれば、 ころころと変わる心の創り出す世界観(意識の投影)を、 そのまま鵜呑みに(盲信)してしまうのは、どうかと思われます。 |走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく |「世間における一切のものは虚妄である」 |と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る |ーー蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである | |(スッタニパータ・第一、蛇の章1-9/中村元・訳) 釈迦も、経典の中で、当時のインドの世界観を語ってはいますが、 その意図を観ていくと、「だから、修行に励みなさい、精進しなさい」 ということを伝えようとしているのであって、 世界はこのように成り立っているのですよ、と、 世界の成り立ちそのものを教えようとしていたわけではありません。 ※「仏教の世界観」なるものを確立してしまったのは、 「アビダルマ」などを編纂した、部派仏教の連中の仕業かと思われ… このような教えを説き始めたのは、教団が大きくなり過ぎて、 出家はしたけれど、修行をあまりしようとしない人たちが だんだん増えてきたからなのだと思われます。 「涅槃経」の釈迦の入滅のシーンでは、 これで五月蠅(うるさ)くガミガミ言う釈迦が居なくなって 喜んでいる出家者もいたという記述があるようですから… > 元の和井さんのご記事と最初のご回答は、許可とってないので今回は転載しませんが。 MIXIで「全体公開」している日記なので、特に許可も何も必要ありません。 アベルさんなら、何でも勝手に使ってけっこうですよ。問題在りません。 |