![]() 夢野さんのメッセージ(#20032)への返事 > > 結局、真我はある、という話になったの、、 > > 和井さんと立場が異なるからぼくのほうは「真我はありうる」説になります。 じゃあ、私は「無いこともない」説なのかしらん♪ > でも手段として、真我はないと思っておけばそれを体験しやすいでしょう > 無我説といえども真我はないように断定する根拠が不明 そうですね。 何処にもそれだと認識できるようなモノは存在しない、 と、単にそれだけを言っているわけだから… > > 麻原の擁護がしたいわけ? > > 漏れが(麻原が真我が流転する)って説は > 彼の無思考幇助には強く反対しますねー。 > なのでリスクはあっても、思索による体験を自分は重視する方針 > あとそれから、流転するのは真我でなく魂(って幻)だと思われます。 > 魂に語弊があれば自我ですかね。真我説と無我説は自我の否定が共通の目的かなと 自我という言葉よりも、仮我の方が解りやすいかも… でもそうすると、じゃあ、仮の自己ではない本物は何処にあるんだ、 それ(本当の私)は何なのだ、という「突っ込み」がすぐに入りそうだな… ちなみにサーンキャ哲学では、 「真我(プルシャ)」と「プラクリティ(根本源質)」とに分けて、 「プラクリティ」が三グナの働きによって「転変」して、 色々なモノを創りだして、有の世界が形成されてゆく、とされています。 心も体も、この「プラクリティ」が転変したモノで形成されているのだそうですよ。 > > 見たことがねえよ、と普通は言うが、麻原の家では(アタシは見た)って奴がいるわけ、、 > > 理論上は見えないはず はい、そんなモノは見えません(幻影ならば別だけど)。 > > 「我思う故に、我有り」という言葉があるけど、 > > デカルトの真意はまだよく知らぬが >「思うゆえに思いあり」のほうがベターとか諸説複雑で、 > 言葉の不完全性をあらためて感じます うーん、「行為によって、その行為をしている主体(自分の存在)があると知る」かな… そして、デカルトの場合は思索家だったから、 「思う」という具体的な行為が一番最初に浮かんだのだろうし、 その「思うこと(思考)」が自己を意義付ける「一番大切なモノ」だったのでは? 受動的な「認知」ではなくて、能動的な「行為」を使って、その主体を知ろうとした。 でも、どちらにしても、それらの「手がかり(依処)」が消えれば、認知も不能。 |