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#20011 2009年2月14日(土)16時17分
From: 和井 恵
Subject: Re2: ●出家会員の住居(埼玉県吉川市)での立入検査について

夢野さんのメッセージ(#20010)への返事

> 釈迦は非我のみを語って人を真我に近づけたというのはさすがです。
> 逆にいうと非我を知らずに真我は理解できなくて、ゆえに無の境地は不安定だと思われる
> それと真我を認知するのも不可能的(不可能と断定はしませんが)なのでしょう。
> 目が自分を見られないように

そうですね。

真我を知ること(?〉は、決して不可能ではありません。
釈迦は、それを「如実智見(ありのままに観ること))」によって直知したのですから。

それを実現させるには、「何かに頼って知ろうとすること」を放棄した方が早いのです。

そしてこれは、「理性」よりも、むしろ「感性」を使った方が掴みやすいのですね。
逆に、難しく考え過ぎてしまうと掴めません。

ですから、禅宗の「公案」などでは、相手を思考のパラドックスに追い込んで、
完全な「思考不能・停止状態」を造り上げてゆくのです。
(ですが、ただこれをマニュアル通りにやっても、そうなるとは限りませんけどね)

知ってしまえば「コロンブスの卵」と一緒で、そんなに難しいことでは無かったのだと解ります。
というか、それ自体は、とてもシンプルな「覚醒体験」なのです。
そしてこれは、深い瞑想状態(サマディ)に入らなければ掴めない、というものではありません。

瞑想とは、内界(心の世界=色界と無色界)を探索したり、観照してゆく方法・技法なのです。
ですから、そこをいくら探し見つめても、真我(真の自己)が見つかるわけではないのです。

つまり、意識を外界(現象世界)や内界(心象世界)に向け続けて探索している間は、
その世界の対象(客体)に囚われ続けるがために、「自覚(明智)」が顕現しないのです。
ですから、この瞬間(明智の発現)は、逆に言えば、瞑想中や日常生活、このどちらの場合でも起こりうるのです。

条件さえ上手く合えば(整えることができれば)、日常で瞑想に頼らずに得ることも可能なのです。

コツさえ上手く掴めれば、そんなに難しいモノではない、ということを覚えておいて下さい。
そうしないと、自分で造りだしてしまった「心理的な壁(観念や思い込み)」に邪魔をされて、
自業自得という呪縛状態から抜け出すことが出来なくなってしまいますから…

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