> その属性を「…である」と定義することはできないという。 > したがって、「…である」ものではない。 > すなわち、「何でもないもの」すなわち「何かではないもの」 > 「有るものではないもの」がアートマンで、 > これは仏教または禅の「無」と同じ意味だととることもできる。 ありがとうございます。書いてから頭が痛くなったので(笑、考察を深めてるところです。厳密にいえば「真我」という語自体が不自然でしょうけど、無言なだけでも話が進まず (狭義の)真我は有に比べれば無だといえますが、有がなければ無ぢゃないからほんとはどちらでもないわけですね。じつは真我のほうがφ(に近い)かなと仮説を変更 釈迦は非我のみを語って人を真我に近づけたというのはさすがです。逆にいうと非我を知らずに真我は理解できなくて、ゆえに無の境地は不安定だと思われる それと真我を認知するのも不可能的(不可能と断定はしませんが)なのでしょう。目が自分を見られないように ぼくがφ(空集合)を真我に近いと思った理由を書いておきます(反証可能性に資するため)。ある集合からすべての要素を消し{ }になった状態をφと定義するからですね。またいかなる集合もφを部分集合として含む、φは数学的に不滅らしい(なおφの「考察」は{φ}でφにあらず) ところで0は無と空、どちらの意味もあるそうです。だけど扱いにくい概念なので0はもう要りません(笑。現在ぼくが興味を感じるのは0/1のあいだ、有耶無耶というやつですか。これをφって呼ばないとすれば言語化不能 「あいだ」には全てというニュアンスも含めるわけで、たとえばスピノーザの神は全てを意味するので本質的に「神」は不要な語です。元芝さんがいわれた広義の真我も似てるでしょうか 部分に比べたら全体のほうが神的といえますが 参考:入不二基義「相対主義の極北」。和井さんに近い語法でした |