![]() 夢野さんのメッセージ(#19970)への返事 > それではコンピューターにたとえて無を0、有を1と置きます。 > この場合0は真我で1は非我ですね。 真我を、このように捉えてしまうのは誤りです。 何故、釈迦は「真の自己」というものを説明しようとしなかったのか? それは、客観視して説明を始めたとたんに、本当の真我では無くなってしまうからです。 観察対象としての「名称と概念」にしか過ぎなくなってしまうのです。 そして、名色への囚われ(色貪と無色貪)を生起させてしまう。 アートマン(Atman) は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、 意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。 最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、 アートマンは個の中心にあり認識をするものである。 それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、 アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。 初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、 「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。 その属性を「…である」と定義することはできないという。 したがって、「…である」ものではない。 すなわち、「何でもないもの」すなわち「何かではないもの」 「有るものではないもの」がアートマンで、 これは仏教または禅の「無」と同じ意味だととることもできる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 【アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。】 この言葉の意味を、誰も本当に理解することができないのは、 いったい何故なんでしょうかね? 【「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。】 釈迦は、この正統な方法に即して「五蘊無我(非我)」を説き、 真我そのものの説明については「無記(沈黙)」を貫いたのです。 真我を客体視(観察の対象化)して、あれこれと考えることは、 解脱や悟りを得るための「大きな障害」になるのです。 そして、少し付け加えるならば、 >両者のあいだを0でも1でもないってことでφ(空)と書ける この時点で、0はすでに概念化されてしまって、 1と「相対の関係」になってしまっています。 0と1を「両者」と見なしてますよね。 つまり0は、二元(相対)を構成する「一要素」になってしまうのです。 そして、「0元と1元を包む」のが「空」なのではなく、 一元の本質が「空(相互依存・無自性・無常)」なのです。 あるいは、0元と1元と名付けた「二元世界」を、 包括するものが「空(一元)」ということになるのです。 >ちなみに無と有は0元と2元 いいえ、このように考えてしまったら、 「無と有のセット」で2元(相対)となってしまうのです。 ですから、表現とその意味合いを考えたとき、 「0に非ずのΦ」という表現は、真の意味での0となり、 「0である」という表現は、真の1(相対を包む一元)を意味してしまうのです。 【初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、 「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。 その属性を「…である」と定義することはできないという。】 概念化という言葉の罠を避けるためには、 「…ではない(否定)」もしくは、「…でないこともない(否定の否定)」 という表現を使うほかは、それを顕す表現方法が無くなってしまうのです。 |