(『原始仏典 【第二巻】 長部経典A』[春秋社]P406から) [苦しみの消滅というすぐれた真理とはなにか] 二〇、「また、修行僧たちよ、苦しみの消滅というすぐれた真理とはなにか。それは、この愛執にたいし、残りなく欲を離れ、滅し、棄て、放棄し、解き放たれ、執着のよりどころとしないことである。 では、修行僧たちよ、この愛執はどこで捨てられ、どこで滅びるのだろうか。なんであれこの世のなかには好ましいもの、楽しいものがあり、そこでその愛執が棄てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。 では、この世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものとはなにか。 眼はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである。 耳はこの世のなかにおける[、好ましいもの、楽しいものである。そこでその愛執が捨てられ、そこで[愛執が]滅ぼされるのである]。 。。。。以下同 苦しみの消滅にいたる道とすぐれた真理とはなにか] 二一、「また、修行僧たちよ、苦しみの消滅にいたる道というすぐれた真理とは、いったいなにか。それは、八種よりなるすぐれた道(八聖道)である。すなわち、正しい見解(正見)、正しい思考(正思惟)、正しいことば(正語)、正しい行動(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい念い(正念)、正しい精神統一(正定)である。 では、修行僧たちよ、正しい見解とは、いったいなにか。 [312]じつに、修行僧たちよ、苦しみについて知ること、苦しみの原因を知ること、苦しみの消滅を知ること、苦しみの消滅にいたる道を知ること、これが、修行僧たちよ、正しい見解であるといわれるのである。 では、修行僧たちよ、正しい思考とは、いったいなにか。 出離への思考、怒りのない思考、傷害のない思考、これが、修行僧たちよ、正しい思考であるといわれるのである。 では、修行僧たちよ、正しいことばとは、いったいなにか。 偽りのことばから離れること、中傷のことばから離れること、粗暴なことばから離れること、無意味な飾ったことばから離れること、これが修行僧たちよ、正しいことばであるといわれるのである。 では、修行僧たちよ、正しい行動とは、いったいなにか。 生きものを殺すことから離れること、与えられないものを取ることから離れること、淫らな行いから離れること、これが、修行僧たちよ、正しい行動であるといわれるのである。 では、修行僧たちよ、正しい生活とは、いったいなにか。 ここに、修行僧たちよ、立派な信徒が間違った生活を捨てること、正しい生活をして生きて行くこと、これが、修行僧たちよ、正しい行動であるといわれるのである。 では、修行僧たちよ、正しい努力とは、いったいなにか。 ここに、修行僧たちよ、修行僧はいまだ生じていない悪いこと、善くないことがらが、これから起きないようにするために意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。すでに生じてしまった悪いこと、善くないことがらを、断つために意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。いまだ生じていない善いことがらが、これから生じるようにするために意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。すでに生じている善いことがらを、存続し、忘れてしまわずに、[313]増大し、拡大し、修行が完成されるように、意欲を起こし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。これが、修行僧たちよ、正しい努力であるといわれるのである。 では、修行僧たちよ、正しい念いとは、いったいなにか。 ここに、修行僧たちよ、修行僧は身体について身体を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである。感受に関して[感受を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである]。こころについて[こころを観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである]。もろもろの事象についてもろもろの事象を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきである。これが、修行僧たちよ、正しい念いであるといわれるのである。 では、修行僧たちよ、正しい精神統一とは、いったいなにか。 ここに、修行僧たちよ、修行僧はさまざまな欲望を離れ、善くないことがらから離れ、粗い考察と微細な考察とをともない、遠ざかり離れることから生ずる喜びと楽しみの瞑想の第一段階(初禅)に達しているのである。 粗い考察と微細な考察とを静めることから内心が清浄になり、心を統一して、粗い考察と微細な考察とをともなわない精神統一から生じる喜びと楽しみの瞑想の第二段階(第二禅)に達しているのである。 喜びを離れて、心の平静があり、よく気をつけて、正しく自覚し、身体によって楽しみを感受しながら、それを、聖者たちが「心の平静があり、よく気をつけていて、楽しみに留まっている」と説く瞑想の第三段階(第三禅)に達しているのである。 楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって浄められている瞑想の第四段階(四禅)に達しているのである。これが、修行僧たちよ、正しい念いであるといわれるのである。 これが、修行僧たちよ、苦しみの消滅にいたる道というすぐれた真理といわれるのである。 このように、内に[自分自身の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、また、外に[他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、あるいは内と外[、自分自身と他人の]もろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのである。また、もろもろの事象のなかで生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで消滅する現象を観察し、また、もろもろの事象のなかで生起し消滅していく現象を観察していくのである。そして、知ることの[増えていく]程度にたいし、自覚の[増えていく]程度にたいすると同じ程度に、『ただ事象のみが存在する』という念いが、かれには現れてくるのである。かれは、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのである。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象すなわち五つの蓋について事象を観察するのである」 |