ジュニアーナに限らず哲学一般には、言葉の二元性を免れる努力があると思います。真我と非我はつながりがあるわけで便宜的に分類されたにすぎませんねー。初めから無我と呼んで分類しなくても差し支えないです。 だから相手次第と思いますよ、どの便宜すなわち方便を用いるかは。ぼくには真我説が合ってたが近ごろは無我的な意識も目差してます。 哲学では言葉が世界(の見え方)を創ると、とくにソシュール言語学とかで意識されるようになった。ほんとうはつながってるのを刻む言葉、これは縁起の法にも含まれた論理です。おそらく沈黙こそ何より正確な表現ということにもなりますが、あらゆる言葉は不正確と知りながら活用するしかないんでしょうね。 最近は忙しくてゆっくり書けませぬ |