キャンディさんのメッセージ(#16915)への返事 てか、麻原の教え方だと、真我があるという設定で、それが流転すると すると、最初から(絶対至高永遠なる自分)というのが(ある)という設定で ものを見るわけですよね その絶対至高の自分がアホになって、落下して云々と でも、仏教徒の考えは、自分だと思っていた要素はすべて、無常なので苦なので よって自分とはいえないと、、 自分を構成している要素がすべて(自分)とは呼べないものだと気づけと したらそこに、本当の自分を見出した、というのは、論理の矛盾だと思うんだけどね だって、自分はないって気がつけ、って教えでしょ それで最後に(本当の自分が残った)だの(本当の自分を発見した)だのいう 結論になったら、論理の矛盾だと がしかし、(本当は自分はなかった)と(結論づける)のは誰なんだろう 認知能力が残っているから、(自分はあったのなかったの)認識したり考えたり できるんだろうからね 最後には(この考えるということは劣ったことだ)として 捨てるんだとね に、オウムでは呼吸法を通して、サマディに入ろうとするみたいだけど 釈迦がそうしたという記述はないみたいだしね 苦行時代に呼吸法をして、たぶんクンダリニがあがったかのような記述があるけど 結局苦行では悟れなかったとして、捨てているし 一緒にはできないと思うね てか、麻原に釈迦なんか語って欲しくないわけ 穢れるから どっちでもいいってのは、麻原擁護派ね 麻原はまぜて教えたから、 漏れのいうことを躍起になって(ろくになにも知らずに)とか いいながら、どっちも同じだと論を展開した奴がいましたな |