아벨(Abel)さんのメッセージ(#16182)への返事 > まあ凡夫外道、もとい一般の世間の方々の場合、真我といっても馴染みの薄い言葉でしょう > けど、彼らでも「魂」という言葉なら神秘的な霊魂という意味で用いるかと。 例えば、「私の心」と「私の魂」、 この2つは同じか、違うか、という問いを発した場合、 同じだ、という人もいるだろうし、違う、という人もいるだろうと思います。 違う、という人の場合、 中には(オウム式に言えば)「データで汚れた結果の意識」と 「汚されていない本来の自分」という違いを思い描いている人もいるでしょう。 しかし、一つ指摘したいことがあります。 そういう場合、今ここに存在していると認識している意識のことを その人たちは「真我」とか「魂」だなんて冗談にも思わないわけですけど、 その一方で「真我」のこと、あるいは「魂」のことを 「輪廻の主体(輪廻している主体)」と呼ぶのです。 でも「輪廻の主体(輪廻している主体)」は明らかに今あるこの意識です。 A=B B≠C A=C という変なことを言ってるのと一緒です。 その「輪廻の主体」という言葉が、 「輪廻している意識の黒幕」という意味で使われているのなら話は別で、 A≠B B≠C A=Cはあり得る ということになりますけどね。 > 梵我一如っていう発想を踏まえた上での宇宙意識なんて類のイメージなんて絶対に誰も肯定 > しないと思われます。 というより、肯定して良いのかどうか、 判別する能力のない人が大多数でしょうね。 つまり否定するだけの「知識量」さえないと。(笑) > かなり以前に和井さんが「わかっちゃいるけどやめられない」の「わかる」という動詞に対 > して非常に厳格な定義を述べられ、私や、多分夜熊田相川圭子女史もまたこの動詞を遥かに > 軽い意味で、「知ってる、聞いてある程度納得したことがある」っていう意味で使ってると > いう解釈のギャップを感じたことがありました。すなわち猊下のご指摘を実感したと。 「真我」なんて専門用語でさえそれなのですから、 いわんや「わかる」などの一般用語においてをや、です。 > 天理教の凄く偉い偉いせんせ(天理教教会長でありながら上智の哲学の教授されてた方)に > 対して、天理教の原典における「魂」と天理教布教現場で安易に用いられている「魂」って > いう言葉の用い方の間には定義上大きなギャップがある、とご指摘申し上げたところ、魂って > いう語は定義のしようがない、と言われて何のことか理解できなかった経験あり。 だって、定義が人間より先にあるわけではないですもん。 定義というのは便宜上、人間が制定しているものでしょう? これが人間、ということを生物学的にも、精神論的にも、 ありとあらゆる概念において満足するように定義することができますか? 人非人という言葉があるように、 生物学としては人間と認めざるを得ないが、 こういう性格、能力があって初めて人間である、という観念においては あまり認められない、いや、できれば認めたくない、 という中途半端な例がゴロゴロ存在するわけです。 じゃあ人間って何なの?って問いが持ち上がるわけですが、 その問い自体、人間レベルと称されているような脳機能がなければ 発生し得ないわけですね。 だから、ちょっと飛躍した印象を受ける言葉になるかもしれませんが、 唯物論と魂云々の論とは、和井恵さんが言う「縁起」に かなり類似した関係にあると思いますよ。 魂なくして物もないが、物なくして魂もない。 いやはや、これでは定義の出来ようはずはありません。 > 一般には、非常に一般的に世間で語られているようなイメージにおける素朴な輪廻転生感に > おける「もちこしいんねんの所有者、輪廻の主体」として、生命体個々に存在する固定的 > 実体的な存在として語られていると解釈してよろしいのでは? こういう考え方は多分まず > 実際からは相当遠くかけ離れているのでしょうが・・・ 魂の実在性については単純にこう考えればいいと思います。 「今ある。しかし、1分後あるかどうかはわからない。」と。 なぜなら、今生最初の「記憶している場面」以前は、 覚えてない以上自分では魂、つまり思考する性質を有する実体、というものが あったのか、なかったのか、自分に対して立証することは不可能でしょう? |