聖者ぼんちリンポチェさんのメッセージ(#16181)への返事 > 一般的な意味での真我の肯定、否定で用いられている > 「真我」なるものが、一体何でどういう性質を持っているもので、 > その正体が何なのか、ということについて、 > 厳密な定義が違っているというかずれているというか、 まあ凡夫外道、もとい一般の世間の方々の場合、真我といっても馴染みの薄い言葉でしょう けど、彼らでも「魂」という言葉なら神秘的な霊魂という意味で用いるかと。 まぁA社の場合には魂という語はsattva、生命体(有情)という意味で用いると教えられ たことがありますが、確かに最初Aの話を聞き始めたときには世間における魂という語の 用い方と全然違うことに違和感を感じたものでした。世間の人たちていうか天理教の信仰者 の場合でもそうですが、魂という語に対するイメージとして一般には、個別の独立した個々 の「わたし」に属するものであってきわめて固定的かつ実体的にイメージされることが普通 なようですもんね。 梵我一如っていう発想を踏まえた上での宇宙意識なんて類のイメージなんて絶対に誰も肯定 しないと思われます。 > その意味で、和井恵さんが言う「真我」というのも、 > 必ずしもその他の人間が言う「真我」と、 > 認識が違っている可能性もある。 > 結論から言えば、 > 和井恵さんの言葉は和井恵さんの言葉として、 > 至極単純に、素直に受け取るべきであり、 > 彼の言説を、他人の言説の中に並べて位置づけを云々するのは > あまり意味がないように思えます。 かなり以前に和井さんが「わかっちゃいるけどやめられない」の「わかる」という動詞に対 して非常に厳格な定義を述べられ、私や、多分夜熊田相川圭子女史もまたこの動詞を遥かに 軽い意味で、「知ってる、聞いてある程度納得したことがある」っていう意味で使ってると いう解釈のギャップを感じたことがありました。すなわち猊下のご指摘を実感したと。 > 自分の観念によって多少の曲解が起こることは許容せざるを得ないでしょうが、 > それを自覚しないままに他人の言説と並べて、 > 審判面するのではどうにもなりません。 天理教の凄く偉い偉いせんせ(天理教教会長でありながら上智の哲学の教授されてた方)に 対して、天理教の原典における「魂」と天理教布教現場で安易に用いられている「魂」って いう言葉の用い方の間には定義上大きなギャップがある、とご指摘申し上げたところ、魂って いう語は定義のしようがない、と言われて何のことか理解できなかった経験あり。 一般には、非常に一般的に世間で語られているようなイメージにおける素朴な輪廻転生感に おける「もちこしいんねんの所有者、輪廻の主体」として、生命体個々に存在する固定的 実体的な存在として語られていると解釈してよろしいのでは? こういう考え方は多分まず 実際からは相当遠くかけ離れているのでしょうが・・・ |