おや複雑ですねー(笑、ヒトによって真我の定義が微妙に異なるのぢゃろ。 > どちらでもないのでは? 五蘊が苦しみでなければまさしく解脱の境地か。 > 神が人間としての要素を有して顕現した イエスも絶対化しすぎると、話が変になるとは思います。罪のない木を枯れさせたというエピソードもあったし。とりあえず神の一部だと解釈できる。 > 集合的無意識の概念で、潜在意識は深い部分で繋がって サーバーを真我、個のクライアントPCを魂になぞらえる。デカルトやライプニッツの思想はこれに近いのかもしれません。 あるいはサーバーを非我(五蘊)、クライアントPCを真我という見方もあります。ぼく自身は後者の多神・無神的な表現が好きなわけだが。 ちなみに中観派仏教は真我を否定しますね、絶対的な真我の状態(永久サマディ――無区別の境地)は肉体があっては不可能に近いためでしょう。 ひとまずいろんな仮説を併存させておくべきです |