YASUさんのメッセージ(#15761)への返事 > 今、悩みの種は、ATA説法集などをどう位置づけようかと。 1人の男の言行録でしょう。 ただ、複数の福音書のように、 あまりに昔のことで編集責任者もわからない資料で・・・ ということはなく、本人の発言が聞き書きされただけの、 非常にきれいな形の資料である、という点で いわゆる資料学的価値は見出していますね。 そういうATAから編集されて出版された種々の刊行物も、 聖書に比べれば遥かに信用度の高いものです。 > 彼は天才的な修行者だったことは認めますが、 > 行き着く先が「ミラレパ正大師」や「サリン撒き」ではやり切れませんです。 決意の類さえやらなければ、そっちには行かないはずです。 考えてもみてください。 ヴァヤヴィヤが人にサリンを撒かせますか? 秘儀瞑想でも、そこに最終的な指令を加えなければサリンは撒けないものです。 その意味で、YASUさんが考えておられることって、 責任を「モノ」になすりつけているのと同じだと思いますよ。 問題はその「モノ」の位置づけなのではなく、 その「モノ」に含まれているものを分析して、 必要そうなものだけ使う判断能力なのですから。 ちなみに、「自分にその判断能力が・・」などと思うとしたら、 その部分は確かに「洗脳の影響だな」とは思いますけど。 能力があろうとなかろうと、その時の自分の気持ちに従って判断しろ、 というのが私の意見です。 > でも、 > 「オウムに一寸でも価値を見出すこと」 > はやっぱり無理なのかな?とも考える今日この頃でつ。 あなたが見出した価値は、あなたに限り通用するものです。 共有できる「価値」というのは、 教材の売買、という土俵において仮に設定されるものであって、 絶対的に万人共通の価値を保証されるわけではありません。 だから、いちいち「これはオウムだから」とか考えずに、 単なる一つ一つの話、方法論、メソッドだと考えて、 必要か、不必要か、薬か、毒か、 その時々の自分なりに判断して扱えばよいのです。 |