![]() YASUさんのメッセージ(#14500)への返事 > でも、お釈迦様と他のサーリプッタ以下の阿羅漢との区別が未だに分からないです。 最初は区別なんてありませんでしたよ。 あれこれと理屈を付けて、釈迦を絶対視しはじめたのは、後世になってからのことです。 つまり、教団の「権威」を象徴するための「絶対的な教祖」が必要となった時代、 大切な「無所有」を忘れた、教団の維持と権威の拡大に奔走するようになった、 愚かな「学僧たち」の集う集団が、仏教教団だと言われるようになった時代からなんです。 > オウム流にいえば、阿羅漢成就後にニルヴァーナに入り、 > ニルヴァーナから落ちてきた後の輪廻転生の回数や期間の差なのか? > そもそも、ニルヴァーナは無色界の一部かそれを超えた世界か? ニルヴァーナについて言えば、これは「真我を自覚する」ことと関係するので、 今はちょっと説明を控えておきます。 これを説明すると、「慧解脱」への道は近くなるのですが、 それではあまりにも「他力優位」になって、「自力修行」の妨げになるので… 説明のしすぎも、有害になる場合がありますからね。 逆に、今の元芝さんあたりの状態になると、これをしっかりと説明した方が、 「無色貪」が取れて、けっこう簡単に「慧解脱」まで行ってしまうかも… ただ、一言付け加えるならば、 ニルヴァーナは、無色界の一部でも、それを超えた世界、でもありません。 それらとは、一切関係のない「別モノ」なのです。 > 「岩波文庫」の『仏弟子の告白』に載っている、この弟子たちというのは、 > 全員、「阿羅漢」ではないですか? 昔(最初)はね、「不還」と「阿羅漢」を、それほど厳密に分けてはいなかったんですよ。 だって、不還とは、苦しみの連鎖に戻る必要の無くなった者、という意味で、 一応の「ゴール(目標・彼岸)」に到達しているわけでしょ? そして、「阿羅漢」の直接的な意味合いは、「応供(おうぐ・意訳)」つまり、 人々からの供養に応える資格を持つ者(オウムでは供養値魂と訳している)という意味ですから。 応供は、別名を「福田(ふくでん)」とも言って、その人を、 「人々の幸福を生み出す功徳を、供養することによって耕(たがや)すことの出来る田んぼ」 に喩えているのです。 これらは、階層的(段階的)というよりも、どちらかと言えば、 「同じ人を、別な角度から表現した言葉(異名同意)」だと思いませんか? 何だかんだと「理屈」を付けて、区分けしていったのは、もっと後(部派仏教あたり)の話なのです。 だって、最初は「実践」こそがメインでしたから、教義上の意味づけなど、どうでも良かったのです。 それこそ、フィールドワークが主体で、「結果こそが全て」でしたからね… |