![]() セイラさんのメッセージ(#14427)への返事 > 五感にはまらない感覚を「第六感」と言い、これは人体のどこにあるのか不明。 いえいえ、そんなに難しい話をしているわけではありません。 まず、私たちの「認識するときに使う感覚器官」を六つに設定します。 眼・耳・鼻・舌・身・意 の六つです。 この言葉は、般若心経などてよく使われていますよね。 「意」とは、心の働きを認知する、という「仮設された感覚器官」のことなのです。 これと識別作用がくっついて、それぞれ 眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・ 身識(触覚)・意識(意を感じる覚) となります。 対象となるものは、それぞれ 色(眼識界)・声(耳識界)・香(鼻識界)・味(舌識界)・触(身識界)・法(意識界) ※参考までに、これらに「唯識の八識」を加えると、 前五識 (眼識・耳識・鼻識・舌識・身識、対外的な識別作用) 第六意識 (表面意識) 第七末那識 (潜在意識) 第八阿頼耶識(深層意識、あるいは超潜在意識) となるのです。 外界に対応するものが「五感、五識」で、 内界(心の世界)に対応するものが「意識」(末那識、阿頼耶識は、後世になってから考え出された) ですから、心を使った「イメージトレーニング」を識別するのが「意識」で、 「五感による識別(体を使った体験)」と、ほぼ「同列の扱い」をするのです。 > 心というものが人体のどこにあるのかも不明。 > レントゲンをかけてもわからない。 何処にあるかは特に関係ありません。 これは、認識するか、しないか、という「認識論」の問題なのですから。 > 人智を超えた、もしくは人智が到達していない領域は広いのでしゅ。 釈迦は、そういう漠然とした曖昧な考え方を「排除して」思考していたのです。 |