となると、デーヴァダッタは一度、阿羅漢に到達しているにもかかわらず、 > 供養・名声等を得て堕落しています。 > 何故、阿羅漢から転落したのか?と、 え〜 お久しぶりです。 この話興味あったのでちょっとだけコメントしますね。 俺の知りえたデーヴァダッタ系派仏教において彼は堕ちていないことになっています。 そこで自分の現在の小さな悟りと知識とで考えうるに何がデーヴァダッタに起こったを考えてみました。 結果として考えられるのは「デーヴァダッタは阿羅漢より転落はしていない」です。 ただ、当時の釈迦牟尼とその弟子たちとの意見の対立。慈悲の化身としての釈迦牟尼の自由さと弟子たちのその自由さに甘えた考え、それに対してあまりにも厳格なデーヴァダッタの対立があっただけではないでしょうか。 何故そのように考えるのか。 ここ最近の瞑想において俺が思い、感じ、掴み取ったことは「人は会いたい神に出会う。慈悲なる神を思うならば慈悲なる神に。厳格な神を願うなら厳格なる神に。自由な神を願うならば自由な神に。何故ならば神こそは自由自在だからその人の望む神の姿で現れて真理を解き明かすだろうから」ということです(ゆえに聖者でさえもいろんなタイプの聖者が存在する) デーヴァダッタが行きながらに地獄に堕ちたとされるのは後世の弟子たちの彼に対する意地悪なのではないでしょうか。 |