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#14316 2008年6月15日(日)13時35分
From: 和井 恵
Subject: Re10:和井さんへ

YASUさんのメッセージ(#14312)への返事

> おそらく、ソンシの考えでは、
> 色界(形状界)の上部に行くには、四無量心の修行が不可欠と考え、
> 在家では、「慈(聖慈愛)」ぐらいしかできないと考えて、そういう結論になったと思います。
> 梵天(神聖天)に行くには「性欲」の捨断か「聖慈愛」の実践が必要とか述べていました。
>
> 原始仏教側に立つと、
> 「(上位色界へ転生するのに)そんなモノ(=四無量心)はいらない」と言うことになりますな。

そうですね。四禅定や四無色定を修するのに、特に四無量心は必要ありません。
これらの瞑想修行は「自力修行」が基本なので、
他者との関わりがどうこうということは、特に関係ないのです。

釈迦の出家修行の基本は、まずは外界からの「遠離・離貪」が基本なのです。
四無量心は、その外界に対する意識の持ち方(他者との関わり)を強調するモノなので、
釈迦の修行システムから考えると、むしろ「修行の邪魔」になるでしょうね。

それに、特に「四無量心」などというものを強調する必要は、
原始仏教にはなかったと思います。
何故ならば、仏性の中に「四無量心」は内在されているからです。
修行し成就した「結果」として、四無量心は自ずから仏性として「発現」する。
修行途中で、無理矢理それを押しつける必要はない、と釈迦は考えていたのではないでしょうか。

それらを修行に必要なモノとして、声高に強調し始めたのは「大乗仏教」になってからだと思います。


>「不還」が「慧解脱」を得ると、「覚者」ですか。

いいえ、「慧解脱」か「心解脱」のどちらか一方を成就して「不還果(阿羅漢のスタート)」となり、
「慧解脱」と「心解脱」の二つが揃(そろ)って「阿羅漢果(阿羅漢の完成=覚者)」となるのです。

「慧解脱」は、「無明(根本的な事実の誤認)」を破壊し、
「心解脱」は、「我欲(貪り)」と、それが邪魔をされた時に付随して起きる、
「憤り(怒り)」の二つを止滅させるのです。



> ソンシが言うには、南伝仏教では、覚者=阿羅漢だとか

そうです、阿羅漢果としての「完成形(ラストステージ)」が覚者です。


>「菩薩(到達真智運命魂)」と「如来(真理勝者)」の関係に似ていますね。

不還果を得れば、「菩薩(到達真智運命魂)」としての資質を備えたと言えると思います。


>「仏陀(覚者)」と「如来(真理勝者)」との違いは
>最終地点まで導いてくれたグルの存在の有無とか書いていますし、

これは、あまり意味のない解釈ですね。
「如来」とは、私たちの持つ「本質(真我)」の別名ですから。
麻原流の独特の解釈ではないでしょうか。

ただ、もちろん「師」を持たず、「自力」でゴールまでなんとか到達した人と、
誰かの助力を得てゴールまで到達した人とでは、「底力(地力)」が違うでしょうけどね。
自力のみの人は、数多くの失敗や寄り道を繰り返すことになります。
しかしその経験こそが、その人の結果を支える「貴重な財産」となっているのです。

他から導かれた場合は、そういうベーシックなものが経験できませんからね。
しかしその分、結果は素早く出せる、ということです。


>南伝仏教では阿羅漢(供養値魂)=仏陀(覚者)と見なしているとも書いてありました。

ええ。仏の「十号(十種類の呼び名)」は、
オウムでは「段階的(階層的)」なものとして説明していましたが、
本来は「並列的」なものと見なされています。
ですから、阿羅漢(供養値魂)=仏陀(覚者)であってもおかしくはないのです。


> となると、デーヴァダッタは一度、阿羅漢に到達しているにもかかわらず、
> 供養・名声等を得て堕落しています。
> 何故、阿羅漢から転落したのか?と、
> それをラオスのお坊さんはソンシに突っ込まれて、返答できなかったと。

阿羅漢とは言っても、これは不還果の方でしょうね。
まだほんの入り口の段階。

ただ、デーヴァダッタは堕落したと言いますが、
これには諸説があるようです。一概には言えません。
彼は石頭というか、原理原則主義というか、ようするに「融通がきかない」性格だったのです。
で、釈迦に、もっと戒律等を厳格に徹底しろと要求を突きつけた、と。
これはおそらく、ジャイナ教あたりの影響を受けたのではないでしょうか。
あそこは、戒律がとても厳しくて、それが成就に至る必要条件になってますから。

釈迦はそれを退けます。戒律などは「手段」であって「目的」ではありませんから…

尊敬する釈迦に、文句を言った不遜な弟子として、
デーヴァダッタは他の弟子達の逆鱗に触れてしまったのです。
とにかく、釈迦の弟子達はデーヴァダッタを徹底的に毛嫌いしていたようで、
ジャータカ(釈迦の輪廻転生譚)を創作したときには、徹底的な悪役に仕立て上げていますよね。

実際には、彼もそれなりの弟子を持ち、
その一派は、かなり後生にまで存在していたことが、学術的に確認されているはずです。

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