![]() YASUさんのメッセージ(#14303)への返事 > キャンディちゃんか誰かが、わたしの教義資料を使って、 > > ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ > > 748 :神も仏も名無しさん:2008/06/14(土) 20:40:45 ID:7o5BBNju > >>719 > 「神聖天」の説法には、 > 「一般的に、在家で頑張った場合、その限界がこの神聖天である。」 > と書いてある。 > でもオウムの教義自体いい加減だからどうでもよい話。 > > http://blog116.fc2.com/a/aumer000yasu/file/nif005.txt > > ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ > > と書いていたんですが、どう思いますか? > > 在家信者は神聖天(梵天)が限界だとソンシは言っているんですが。 これは「謬見解」ですね。 ここで少し検証してみましょうか… 要するに、在家は「不還」までが限界で、 不還とは「六欲界」に戻らないことを言うのだから、 「神聖天(梵天)」までは行けるだろう、という考え方のようですね。 しかし、「神聖天(梵天)」に行ったとしても、「創世記」に出てくるように、 欲界への「転落(落下)」の可能性は残っています。 とすれば、これでは、本当の「不還」とは言えないでしょうね。 ですから、オウムでは「不還」に対する考え方(解釈)が「間違っている」のです。 > 一方では、在家の仏弟子のナンダマーターは四禅まで到達したと書いてあります。 > また、五下分結を捨断しているとか。 > 四向四果で言うと、不還ぐらいかな? 「四禅定」まで修している、ということは、「色究境天まで行ける」ということ。 ここですでに、「梵天どまり」という「オウム説」は破綻してしまいますよね。 「還らない」というのは、「欲界に」ではなくて、 「苦しみの連鎖する世界(状態)」に、「不還」となった存在、なのです。 (「色界」も「無色界」も、一応、苦しみの世界の範疇に入ります。) 確かに、不還の状態では、まだ「煩悩」が残っています。 しかし、「明智(苦しみを苦しみであるとありのままに知る知力)」を得ているので、 それらは「苦しみの因」とはならずに「転変」するのです。 不還の状態になると、「煩悩」そのものを「瞬間(今、この一瞬)の楽」として、 純粋にその働きを「楽しむ」ことができるようになります。 これは、「刹那滅の楽」なので、未来への連鎖とはならずに、新しい因を造らないのです。 下記の文章は、私のブログの中の、「識別の停止」のコメントからの転載ですが、 ※ ※ ※ 不還になった段階では、外因の停止(遮断)は出来るようになりますが、 内因の消滅には、まだ至っていません。 従って、煩悩はまだ残っているのです。 ------------------------------------------------------------------------------ ◆ 12 二種の観察 ◆ 私が聞いたところによると、 ……或るとき尊師は、サーヴァッティーの(郊外にある)東園にある、 ミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。 そのとき尊師(ブッダ)は、その定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、 修行僧(比丘)の仲間に囲まれて、屋外に住しておられた。 さて、尊師は、仲間が沈黙しているのを見まわして、かれらに告げていわれた…… 修行僧たちよ、善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。 そなたたちが「善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは 何故であるか」と、もしだれかに問われたならば、 かれに対しては、次のように答えねばならぬ。 ……「二種ずつの真理を如実に知るためである」と。 しからば、そなたたちのいう二種とは何であるのか、というならば、 「これは苦しみである。これは苦しみの原因である」というのが、一つの観察(法)である。 「これは苦しみの消滅に至る道である」というのが、第二の観察(法)である。 修行僧たちよ、このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、 専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれかの一つが期待され得る。 ……すなわち、現世における「さとり」か、あるいは煩悩の残りがあるならば、 この迷いの生存に二度と戻らないこと「不還」である。…… 尊師は、このように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、 さらにまた次のように説かれた。 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、 また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、 また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々。 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。 かれらは(輪廻を)終滅させることができない。 かれらは実に、生と老いとを受ける。 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、 また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、 また苦しみの消滅に達する道を知った人々 …… かれらは心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。 かれらは(輪廻を)終滅させることができる。 かれらは実に、生と老いとを受けることがない。 ------------------------------------------------------------------------------- 上記の教典は、【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳> ですが、 ここで興味深いのは、 「あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である」 という、この言葉。 不還は、煩悩は残っているが、迷いの生存には戻らない存在だ、と釈迦は言っている。 つまり、不還になると、煩悩は苦の因ではなくなる、と言っているのです。 そして、解脱には「智慧の解脱」と「心の解脱」がある、とも… ※ ※ ※ 「不還」の段階で、すでに「此岸(苦しみの世界)」から離れて「彼岸」には至っているのです。 これが「慧解脱」の状態。外因から離れることが「自然にできる」という状態。 さらに進んで内因まで消滅させると「心解脱」の状態。 「慧解脱」と「心解脱」の二つが完成して「覚者」となるのです。 どちらか片方だけ(普通は、慧解脱が終了して心解脱が未了)では、まだ「不還」なのです。 つまり、最終目的地は、そこからもう少し先にあるのですが、一応「彼岸(苦しみのない世界)」へは、 すでに第一歩を踏み入れているのが「不還」なのです。 > 今のサマナはどうかというと、ナンダマーターにも及ばないんじゃないかと思ってしまいます。 多分、ね。 > ナンダマーターの話は「タターガタアビダンマ・第三誦品」に載っていますけど、 > 四天王天と自由に会話できるというレベルです。 この「四天王天と自由に会話できる」というのは、少し慎重に考える必要があると思います。 釈迦は弟子達に、かなり慎重に、これらに対する瞑想指導をしていたはずですから。 まぁ、ナンダマーターは出家修行者ではなくて、在家の人だったので、 そこまでの指導はしていなかったのかもしれませんけどね。 > でも、逆に、はまり込む人もいるでしょうな。 こうならないように気をつけないと、ね。 他人の「あら探し」だけをしていても、意味無いですから… |