和井 恵さんのメッセージ(#13970)への返事 > 喩えば、「活字中毒(活字への依存症)」とかね。 あはは、まるっきし私だ。 > それらの全ては、煩悩を生起させるだけの「余計な行為」なんです。 「仏教書」でさえもそうなのだから困りものです。 > 解脱をすると、その人の思考・その他は、とてもシンプルなものになります。 > だから、自分自身でも解りやすい分だけ、 > 自己をコントロールをするのも、これまた、とても簡単なのです。 うん、断片的ながら経験がないではないから、 ある程度理解できますな。 考え尽くし、苦しみ尽くしたその後は、 結局そのようにして最後の一歩を終えるようです。 ・・・と、わかったつもりだけの我が身が恨めしい。ww > 何故、「識別」をしようとするのか? > それは、その根本に「無知(知らない・よく解らない)」が在るから。 > だから、「行(好奇心・探求心)」が動き出して、 > あれやこれやと「識(識別・区別・分別)」しようとし始める。 > それが「名色(認識の対象)」を探し出し、 > 自己の「六処(六つの感覚器官)」を働かせて、 > 「触(接触)」を試み、「受(感受作用)」によって、 > 相手のデータを入手する。 > > しかし、このデータは、自己の持つ「無知(煩悩)」の働きによって、 > それらは、誤謬に満ちた、様々な「固定観念」や「思い込み」を > 連鎖的に生起させて、データの「色づけ(加工と補正)」をくり返す。 > > そして、その結果、生まれるのが「愛(対象への好意・好感触)」。 > そこから「取(入手しようと欲する)」が生まれ、育ち、さらに増大し、 > > 「有(= 有情の形成 = 滅び行く悲しい縁起の発生 )」となって、 > 「生(生起による苦しみ)」と、 > 「老死(消滅による苦しみ)」を、繰り返し味わうことになる。 だから最初から「これは苦である」という明智があれば、 興味を持たないから、これらのプロセスは生じないと。(笑) > ま、ここから先の「禅問答」は、ボンちゃんに任せますね。 禅ね。(笑) あ、ちなみに、原始仏教のあり方と表面上は似たところもあるこの禅について、 どういう見解をもってます? 実生活の問題解決という点では結構使えたりもするんですけど、 「釈迦の教えたこと」・・つまり、解脱へのアプローチ方法という観点の場合です。 |