![]() 聖者ぼんちリンポチェさんのメッセージ(#13961)への返事 >こういう場合には、苦に寄り添っている他人についての知識や、 >苦の中にあった頃の自分の感情に関する知識によって、 >自動的に色、識、名色、というプロセスを辿った上、 >名色の中には、それが人間に対してどう影響する性質のものなのか、 >というイメージ、偏見といったものも含まれてしまいます。 それはね、その人が「知識への依存症」になっているからですよ。 そういう、諸々の余計な知識を大切に抱え込んで、 何かにつけて「分析」したり「比較」したりして活用しようと修習してるでしょ? これらは、私たちの色貪や無色貪を増大させ、 それらに、ますます依存した生活習慣を形成してしまうのです。 喩えば、「活字中毒(活字への依存症)」とかね。 現代人の、ほとんどは「思考中毒(考え過ぎ・過剰思考)」に陥っています。 それらは、反射的に、堂々巡りの「欲望を想起させる連想ゲーム」をくり返す。 それらの全ては、煩悩を生起させるだけの「余計な行為」なんです。 解脱をすると、その人の思考・その他は、とてもシンプルなものになります。 だから、自分自身でも解りやすい分だけ、 自己をコントロールをするのも、これまた、とても簡単なのです。 >結局現代に生きている、ということは >それ以上に「愛」とかに進展しない状態を作り出す必要があるでしょう? それよりも、「行」や「識」をコントロールした方が早いでしょうね。 「識別を無くす」と、判断できなくなる、のではなくて、 どうでもいい「余計な判断(識別)」を、あれこれとする必要が無くなる。 何故、「識別」をしようとするのか? それは、その根本に「無知(知らない・よく解らない)」が在るから。 だから、「行(好奇心・探求心)」が動き出して、 あれやこれやと「識(識別・区別・分別)」しようとし始める。 それが「名色(認識の対象)」を探し出し、 自己の「六処(六つの感覚器官)」を働かせて、 「触(接触)」を試み、「受(感受作用)」によって、 相手のデータを入手する。 しかし、このデータは、自己の持つ「無知(煩悩)」の働きによって、 それらは、誤謬に満ちた、様々な「固定観念」や「思い込み」を 連鎖的に生起させて、データの「色づけ(加工と補正)」をくり返す。 そして、その結果、生まれるのが「愛(対象への好意・好感触)」。 そこから「取(入手しようと欲する)」が生まれ、育ち、さらに増大し、 「有(= 有情の形成 = 滅び行く悲しい縁起の発生 )」となって、 「生(生起による苦しみ)」と、 「老死(消滅による苦しみ)」を、繰り返し味わうことになる。 >> これは、苦しみである(と、リアルに直感として解ってしまう)。 >> これに近づくこと、交わること、関係を結ぶことは、苦の生起に繋がる。 >> 私はそれらを厭い、近づくことなく遠く離れよう。それは苦因の滅尽である。 >> すると、それを実戦するための道が、自ずと明らかになって見えてくる。 >こういうシンプルな人間になれれば嬉しいんですがね・・・。(苦笑) それは君が、「思考中毒の罠」から抜け出せれば、できると思うよ。 >たいていの人は「わかっちゃいるけどやめられない・・」という、 >釈迦に言わせりゃ「まだわかってねえ」状態なわけですな。 そうだね、それは「分かったつもり」になってるだけ。 無明を滅する「正しく認識できる智慧」の力(パワー)は絶大なんだ。 「本当に分かった」ら、やめるのはとても「簡単」なの。 理由は本当にシンプルで、「その方が、苦が少なくて、とても楽だから」。 >人間というのは、誰が見てもわかるような苦の部分は排除して、 >楽しめる部分はいつまでも意地汚く楽しもう、という傾向がありますから、 >一度懲りてみたところで、次こそはなんとか美味しいところだけ、 >などという愚かなことを考えてしまうようです。 それは、「表」だけで出来た「硬貨(コイン)」を必死で探しているようなモノ。 表と裏があってこそ、はじめてコインは成立するのです。 表だけ、あるいは裏だけのコインなど、どこにも存在しないのです。 禅宗に、「隻手の音」という問いかけがありますよね。 拍手は普通、両手でするものです。 しからば問う、 「片手だけ」でおこなう「拍手」では、 どのような「音」がするのだろうか? 音なんてしませんよ、というと、馬鹿者!と一括される。 そこで必死であれこれと考える… すると、在る瞬間、その音が聞こえたりして。 ま、ここから先の「禅問答」は、ボンちゃんに任せますね。 |