カンカーレーヴァタ・メッセージ 以下の文章は脱会直前にカンカーレーヴァタ正悟師が教団内の電子会議室に投稿したのものです。 個人的には最後の2つの文が彼が教団脱会を決めた最大の理由だと考えています。 --------------------------------------------------------------------- (32)菩提心 K.Revata 07/07/11(水) 13:07 [New] わたしの動向に関して、いろいろと会議室に投稿があったり個人的にメールが 寄せられたりしています。ただ、わたしに対して寄せられるものと、以前マイト レーヤ正大師に向けられたものとのあまりの差に非常に複雑な気持ちでいます。 ヴァジラティクシュナー正悟師が総合掲示板(828)に投稿していますが、お そらくその内容も相当に否定的に受け取られているのではないでしょうか。 しかし、このわたしに対するものと、マイトレーヤ正大師、ヴァジラティクシ ュナー正悟師に対するものとの違いがどこにあるのかが実は教団の問題点を象徴 的にあぶり出しているように思われてなりません。逆説的ですが、それはわたし が脱会を決めた一つの要因であったともいえるのです。 教団は密教の一部の教えをすべてのようにとらえることで、仏教の本質を失っ たのではないでしょうか。わたしにはそのように思えてなりません。 わたしが決めたことは、遡れば事件後の97年以降わたしがこの教団でなして きたことを振り返りながら、あくまでも自分で考え自分で出した結論で、誰かに 影響されたものではありませんから、それを今から変えるということもありませ ん。 皆さんの気持ちはとても嬉しく思います。しかし、上記のことから100%そ のまま喜べるものではないということは重要なことだと思います。 個人的に送られてきたメールの中に、「最後に説法をしてほしい」という要望 がありました。しかし、自分でも予想外の状況になってしまっているので、直接 の説法は難しいと思っています。 その代わりとして、今日から何回かに分けて、最近わたしが教えを学びながら 考えてきたことを投稿したいと思います。 もともとは他の目的で書いていた文章で、サマナの会議室に載せるつもりでは なかったものですが、このような状況になった説明の一端としても、また皆さん に純粋に教義上の利益もあるかと考え、一部書き換えるなどしてここに掲載する ことにしました。 ただ、こういう状況の中で掲載するのには、今なお非常に躊躇があります。そ の内容が大したものではないと思われるならいいのですが、実際に大変利益にな るものだと認識された場合、「なぜもっとこういう説法をいる間にしてくれなか ったのですか」と言われかねないと思うからです(今日まで出し惜しみをしてき たみたいで、それはとても意地悪なことですから)。 そのような批判・非難が生じても、それはもっともなことです。 わたしの愛の足りなさ、未熟さゆえです。お許しください。 33)@自己の執着・他者への怒り K.Revata 07/07/11(水) 17:49 [New] 自己を認識するという働きがある限り 他者も同時に想定される 「自己」があることによって「他」が存在する このように「自己」と「他」を別のものとしてとらえる働きによって 自己の側には執着が、他者に対しては怒りが生じるのである これは、ダルマキールティの『プラマーナ・ヴァールティカ』にある一節です 。わたしたちにとっては、初めて聞くような内容ではないため、ともすると「な るほど、その通りだね」と簡単に見過ごしてしまうかもしれません。 しかし、チベット仏教が繰り返し、菩提心を培うことの重要性を述べているこ とや、わたしたちの修行の最終の状態を「空と慈悲」、あるいは「慈悲と結びつ いた空性」といった表現をすることを思い出しながら、改めてこの一節を見てみ ますと、そこには大変重要な教えが語られていることに気づきます。 ここでダルマキールティは、わたしたちが「怒り」という感情を起こすのは、 その相手を「他者」と認識しているからだと言っています。 例えば、わたしたちが誰かと論争しているとしましょう。初めこそ冷静に論理 的に意見を交わしていたのですが、次第に熱を帯び、ついには互いの性格的な欠 点に言及するところまで発展し、とうとう怒りをぶつけ合うようになってしまう などということはままあることです。 このようなとき、わたしたちの怒りは、「わたしと考えの違う他者」に対して 生じています。 ではもし、この相手を「自分」と認識したらどうなるでしょう。相手の人を「 もう一人の自分」と思い込んだり、もしくは「相手の言っていることは自分のも う一つの見解なのだ」と考えるのです。 試してみられたらいいですが、怒りが徐々に減っていったり、あるいは全く感 じなくなってしまうことがわかるでしょう。 これは大変興味深いことです。 この例では、自分と違う意見を言ってきたのが「他者」であったため、自分の 考えを譲ることができず、最後怒りという感情が生起してしまったわけですが、 もし同じ内容を自分が心の中で思いついたとしたら、そのことに怒りを持つ人は いないはずです。 「これはAだろう」「いや、Aはおかしい。Bではないか」と、心の中で自問自 答するとしたら、いずれもが自分が思いついた見解ですから、そのどちらにも怒 る人はいませんよね。 この違いがどこから来ているかといえば、「自己」と「他」という認識からな のです。 無智を根本とした愛著と邪悪心によって、わたしたちは苦しみの輪廻を繰り返 しており、この相対的な感情を滅することが修行の最終目的、煩悩破壊であるこ とをわたしたちは知っていますが、この「愛著と邪悪心」を「自己と他」という 関係と結びつけて考えることはあまり意識されてこなかったように思います。 (34)A「自己と他」がなくなって生じる喜び K.Revata 07/07/11(水) 17:51 [New] ではもし、すべての対象を自分と認識できるようになったらどうなるのでしょ う。いえ、正確にはすべてが自分になってしまうのですから、他という概念を前 提とした自分という言葉も適切ではありません。残念ながら、これを表す言葉は ないようです。 そして、自己に愛着し他に怒るということからすると、すべての対象に愛着す るということになります。しかし、愛着というのは偏った特定の対象に対する執 着を指す言葉ですから、本当にすべての魂に愛着したとしたらそれは愛着と言え るでしょうか。当然、愛あるいは慈悲という言葉を当てはめるのがふさわしいで しょう。 ということは、執着と怒りといった相対的感情が少なくなればなるほど、「空 と慈悲」に近づいていくことになります。 (この考え方は、自我への執着を断ち切る、自我の放棄というものとは逆の論理に なるのかもしれません。あるいはその形を変えたものかもしれません。ここは難 しいところですから、今後熟考してみたいと思っています) 巷で流行りの歌でも、「みんな一人じゃない」とか「みんな一つ」という歌詞 があるようです。仏教やヨーガではない、精神世界の書物でもそういう表現が出 てくるらしいです。 やはり、人は「自己」と「他」を区別することが苦しみであって、その区別を なくしていくことが喜びなのだということを潜在的に知っているんじゃないでし ょうか。 しかし、世の中の人は矛盾をよしとしています。現代はペットブームで、日本 全体の半分ぐらいの家庭でペットが飼われているそうです。しかし、そういう人 たちも日常牛や豚、鳥の殺生された肉を食べて何も疑問を感じていません。ペッ トは家族という「自分」ですが、牛や豚は「他人」だからでしょう。 (35)B空と因果の法 K.Revata 07/07/11(水) 17:54 [New] 自己と他の認識から、自己に対しては執着が、他に対しては怒りが生まれます 。そして、この相対的な意識状態を脱却したところで、わたしたちは通常観念的 に意識している愛とは別の愛の意識を得ることになります。 空を悟ることと慈悲の心を得ることというのは、実は同じことを言っていたの ではないでしょうか。ちょうど、空を飛ぶ鳥に二つの翼が必要なように、どちら もが共に相携えていくものであって、片方だけでは成り立たないのだと思います 。正確には、この慈悲は「勝義の菩提心」というもので「世俗の菩提心」とは区 別されるもののようです。 わたしたちがこの状態に至るためには、まず因果の法にのっとった教えの実践 が必要となります。言い方を換えると、徳を積み、相対的な世界での善き心を形 成するということです。 そして、実際に空の意識状態を自在に経験できるようになったとしても、人と してこの世にとどまる以上は因果の法に従う必要があります。 ですから、教えの初期においては難しい空の教えというのはほとんど説かれる ことがありませんが、修行の最終の段階とは「慈悲と結びついた空性」であると いうことは知っておく必要があります。 またもし、仮にその状態を得たとしても、それは因果の法を捨てていいという ことではないことも理解しておく必要があります。 しかし、わたしたちは日常善き心を形成するよりも、むしろ他人を非難したり 攻撃したり、自分は正しいが相手は間違っていると考えたり、自分を聖なるもの とみなす一方、自分に敵対するものは魔とみなすといった心の働きをより多く修 習してしまっています。 このように自分にとって好ましくないものを魔と認識することは、果たして正 しい心の働きなのでしょうか。 | 200707-29 12:19:12 | カンカーレーヴァタ・メッセージ #- URL [ 編集 ] |