教祖の卵さんのメッセージ(#24968)への返事 > > 某聖者とは、どなたでしょうか? > 名前が無理なら、なぜ元芝さんが信じるようになったのか、 > その経緯を知りたいものです。 ここでは名前は伏せておきます。 ご迷惑がかかるといけません。 我が師ですら名前をあげるのはご迷惑だと思って控えているので。 仮に聖者Cとお呼びしましょう。 彼はジュニアーナ(アッギャ)ヨーガの聖者です。 その恐るべきというくらいの知慧はヨーガだけではなく仏教にも精通し、真理というものは如何なるものかを示してくれます。 Cは日本では無名ですが世界的に有名です。 > > 前生というものは、あるかないかという時点で、 > 疑わしいものであります。 > それゆえに、いくら、それらしき証拠を揃えても、 > もちろん証明にはなりません。 > > http://www.vivekananda.net/PPlHeKnew/HouseholderDisciplesofRK/MahendranathGuptabio.html > ところで、マヘーンドラナート・グプターをご存知ですか? > 彼はラーマクリシュナの主要な弟子の1人でMと呼ばれるのを好み、 > ラーマクリシュナの言行録である「ラーマクリシュナの福音」を出版した人です。 > 彼は「あるヨギの自叙伝」という本で「至福の聖者」と呼ばれています。 > > さて、元芝さんとは教団に所属してた時期がずれているので、 > あまり面識がないと思いますが、パモーチャナ師という人がいます。 > 彼は幼いころからMという文字が理由もなく好きで、 > 幼稚園のころロボットの絵にMという文字を書いていた、 > 小学校の図工の時間に作った壺にもMという文字を入れた、とのことです。 > > 教団に入ってからは編集関係のワークを中心として行い、 > 成就認定後は、身体が常に快感に包まれているという至福状態が続いているそうで、 > アーレフのビデオで「至福の聖者」と紹介されていました。 > > 私は彼の顔を知っていますが、この写真とよく似ています。 > 彼はマヘーンドラナート・グプターと自己に何らかの縁があるのではないかと感じ、 > インドのドッキネッショルのラーマクリシュナの住んでいた部屋を訪ねて行ったとき、 > とてつもない、懐かしさと感動を感じ、 > 一緒に行ったヨーガ教室の生徒さんたちが、 > なぜか泣いていた、ということがあったそうです。 > これは不思議な話だと思いますか? > それとも、そうは思わないですか? 思いません。 それは『あるヨギの自叙伝』などを読んでいたパモが彼のナルシズムを満たすために無意識に演技をしたのだと思います。 聖者とは如何なる者か? 我が師も聖者Cもそして多くの聖者もこう答ます。 「神の楽器」 あるいは 「神の道化」 すなわち神の、神が神自身を表現するための道具であると。 聖者が死して、転生し新たな生を得る場合我々とは違う点があります。 それは傾向を決定するサンスカーラが死滅しているため前の生の傾向をひきずららないということです。 別の言い方をすればその生の都度に神が弾く曲が違う(その生でのテーマが違う)ので、成すべきテーマや乗り越えるべきテーマが違う(色々なシュチエーションを体験する)ので ハッキリ言って 顔が似るとか人生がシンクロするとか あり得ません。 シンクロするのはサンスカーラから解放されていないものたちだけです。 釈迦の転生譚を見ても様々なシュチエーションを生まれてきています(一貫しているのはその崇高な精神性だけです。そうで無い性もありますが) 偉大なものに自分の人生を重ねるのは弱者や虎の威を借る詐欺師の傾向です。 悟りを得んとする者は過去自分が誰であったかよりも自分とは一体何なのか? を重視すべきです。 過去は消え去って戻っては来ない。永遠に。 だから過去世で自分が誰であろうとそれは糞ほどの意味も持ちません。 だから逆に瞑想の中で自分の過去世が見えてそれが偉大な人物だった場合、それは自分のプライドの高さの現れだと取るのが真の意味で偉大です。 |