ヨギの卵さんのメッセージ(#24944)への返事 > ラトナサンバヴァという言葉があるのですか。 金剛界曼荼羅に出てくる「宝生如来」のことです。 その名前の通り、財を象徴する、と解釈するのです、この場合。 財は3グナ、つまりラジャス、タマス、サットヴァの変形したものであり、 本来誰の所有でもないものである。 よって、真理のために使われるならば、 その財はどのようにして集められてもよい。 たとえ盗み取っても・・・、という教義ですわ。 ま、いわば誰のものでもないのであれば、 いわゆるところの盗みであっても、 本来的にはそれは盗みということにはならない、ということですね。 誰のものでもないものをそこから持ち去っても、 それを盗みとは言わないわけですから。 > なんというか・・・凡人には考え付かないですね。 凡人というより、所有の概念を持っている限り、 絶対に出てこない考え方でしょうね。 もっとも、所有という観念を自分が滅したところで、 盗まれた方には所有の概念がしっかり残っているわけでして、 そんな奴相手に盗んだらどんな騒ぎになるねん! という観点はそこには完全に欠落しています。 例えばここにみかんが一個あったとして、 このみかんはぼんちのものであり、ヨギの卵さんのものではない、 と普通の意味で言う場合、 そこには、私とあなたが種としては対等な人間である、 ということが前提になってきます。 つまり、所有権を話し合える間柄、ということです。 しかし、見たところこのみかんはどうやらぼんちのものらしいのに、 あなたが一方的に私から取り上げて食べてしまうことを正当化しようと思ったら、 私とあなたが種として対等ではない、 例えば、ぼんちは人であり、ヨギの卵は神である、 というような絶対的な前提を持ち込む必要があるわけです。 それでですね、その前提の持込をしてしまったのが、 オウム真理教だったわけですよ。 |