![]() > > えええええ〜〜〜〜〜〜、この修行で向かう方向性は?? 某カルトの教えの言い方を > > また持ち出すと、解脱悟りではなくって現世における幸福限定って意味なんですか????? > > 五蘊(仮設された個我)から離れることが出来なければ、解脱や悟りは訪れません。 > 自己啓発系の発想は、その個我の構成要素を改善してゆくだけですから… > > でも、現世幸福を得るという点では、とても有効な方法だと思います。 少し、補足説明をしておきます。 > この修行で向かう方向性は?? 「この修行 」というのは、善業(功徳)を積んで悪業を滅するという方法のことですよね。 これに関連したコメントとして、私は元芝さんに、すでに(Message#22399 )で、 > 仏教では、カルマの法則や功徳の理論を説きますが、 > これらは全て、「個我」を前提として成立するモノですよね。 > > つまりこれらは、主に在家の人たちに「生天の教え」として説かれているものなのです。 > > 解脱・悟りに至るためには、ある段階で、 > これらの教えから離れる必要があるのは、理解できるでしょ? という発言をしているはずなのです。 カルマ(行為の果報としての形成作用)の働きに関しては、 私は現在では、(仮説された)個我の持つ五蘊の中の「行」の働きとして捉えています。 ※「カルマ交換」と呼ばれているものは、主として「邪気」などの類(たぐい)であり、 その中には当然、その人の「残留思念(サイコメトリなどで知覚できる記憶・想念)」 なども、その「邪気」の中に含まれていると考えられます。 しかし、これらは「疑似的(一時的)な現象」なのであって、 本当の「カルマの交換(完全に相手に移行する)」などでは無いと思っています。 例えば、数多くの殺人を犯したはずのアングリマーラが、何故そのままの生涯で、 そのカルマを精算する(殺される)ことなく解脱をすることが出来たのかを考えてみた場合、 個我の働きを超えた、人々を支配する「カルマの法則」など存在しないからだと思うのです。 しかし、アーガマを読むと、とても不思議な話が出てきます。 解脱をして阿羅漢となったアングリマーラが、托鉢をしていると、 村人達から迫害されて傷を受けるのですが、それに対して、釈迦は、 それはお前が、来世で受ける地獄のカルマを今受けているのだ、と諭しているのです。 しかしこれは、よく考えてみれば、とても奇妙な話しですよね。 これが正しいとすれば、解脱をしても、地獄のカルマはまだ残っていて、 その精算を受けなければ、来世があって地獄へ落ちてしまうと言うのですから… というか、そのようなカルマの働きを残したままで、解脱できるはずがありません。 これに対する、私の解釈は、次のようになります。 アングリマーラは、修行によって、個我の五蘊を超えることが出来ました。 しかし、村人達の個我には、当然、まだ事件によって形成されてしまっています。 村人達の「行(彼の殺人によって造られた、彼への怨み・憎しみという形成作用)」は、 依然として、まだ「そのまま残っている」のです(村人達は解脱をしていませんから)。 ですから、村人達と出会ったときに、アングリマーラの「行」の働きとしてでは無く、 村人達の「行」の働きとして、彼は迫害を受けたのです。 つまり、業には「自業(自分が受ける果報)」と「共業(他人が受ける果報)」があるのです。 アングリマーラは、托鉢から帰って心を静めようとしますが、釈然としないものが残ります。 私は解脱をしているはずなのに、何故、迫害を受けているのだろうか? もしかして、私は、まだ本当の解脱には至っていないのではないだろうか? おそらく、アングリマーラの解脱は、心解脱を主として実践されたものだったのでしょう。 その「心」に、微かな揺らぎが顕れているのを観た釈迦は、それを鎮めるために、 アングリマーラの納得しやすい、「地獄のカルマ」という対機説法をしたのだと思うのです。 釈迦が「出家」を弟子達にさせたのは、「共業」から離れることで、 「自業」のみへのアプローチを可能にさせるためでもあったのだと思います。 |